昭和40年代の岩手競馬を総論的に評すれば、右肩上がりに発展した10年といえる。入場者・売上とも急上昇し、それによって開催日数の増加や賞金額のアップという好循環が生まれた。そして組合設立当初は1着賞金10万円のレースすらなかったところから、1972(昭和47)年10月の農林大臣賞典で岩手競馬初の100万円のレースを実施できるまでになった。
ただしこの好況は岩手競馬に限った話ではなかったので、岩手競馬は全国の最下位を争うような地位から抜け出すことは出来なかった。競走馬のレベルも低く、この時代の屋台骨を支えたのは他地区からの移籍馬で、それもかの地で名を上げた馬はほとんどいなかった。それでも賞金増や県の経済発展により、馬主が良質な(高い)馬を手に入れられるようになったことで、年を追うごとにレベルアップが進んでいった。
それを象徴する馬として、中央から移籍して1974(昭和49)年を中心に活躍したウイスカーを紹介したい。主戦を務めた小西重征氏が「まるで外車に乗ったような感じ」と振り返った乗り味の良さと豊かなスピードで、1974年10月(農林大臣賞典)に旧盛岡2000mで2分5秒7、11月に水沢1600mで1分39秒7と相次いでコースレコードを更新し、このタイムは旧盛岡2000mが13年、水沢1600mが実に20年にわたり破られなかった。
ただしこの時代、レースのクオリティをレース名で示すという、ファンにわかりやすい競馬の指針がなかった。確かに1969(昭和44)年に不来方賞などがスタートしていたが、これらは岩手競馬の最高峰のレースではなかった。また最高賞金レースは農林大臣賞典だったが、シーズン途中で賞金が増額される年もあり、賞金額とレースの価値が比例していたか疑問もあった。
そこで1973(昭和48)年に“重賞競走”を新たに制定し、その指針となるナンバー1決定戦として「みちのく大賞典」を創設した。第1回みちのく大賞典は7月22日に旧盛岡競馬場の2000mで当時の岩手競馬史上最高賞金額となる1着賞金150万円をかけて争われ、千葉次男氏(故人)が騎乗したヤマトハナが初代チャンピオンに輝いた。この時のヤマトハナは2週間前の前哨戦で2着と敗れたこともあってファンの支持は高くなかった(単勝16.3倍)が、その前哨戦を制し本番でも支持を集めたフジナショナルに雪辱を果たす、殊勲の勝利であった。
同じ1973年にはそれまでなかった(旧)3歳馬の競走として「南部駒賞」を創設した他、東北3県(岩手・上山・新潟)持ち回りの東北地区交流競走もスタートした。基幹競走が出来た岩手競馬は、同じ年に大井競馬から中央に移籍してクラシックを戦った元祖アイドル・ハイセイコーが沸き起こした全国的な競馬ブームにも後押しされ、この年に年間売上100億円を突破した。そして2年後の1975(昭和50)年に、現在の競走体系の礎となる番組改革を実施し、岩手競馬は近代化への歩みを始めたのである。

1964(昭和39)年(組合設立年)〜1974(昭和49)年までの入場人員・売上高推移
出所:「いわての競馬史」(岩手県競馬組合)※一部年度再掲

第1回みちのく大賞典をヤマトハナで制した千葉次男氏(1948(昭和23)−2002(平成14))。
1970(昭和45)年に中央で騎手デビューした後に岩手に転じた異色の経歴を持ち、みちのく大賞典2勝・桐花賞3勝など大舞台に強いトップジョッキーとして高い評価を得た。