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第13回 自治体競馬の時代-繋駕(けいが)速歩の黄金時代

 この時代を語る上で忘れてはならないのは速歩競走の存在である。速歩競走とは読んで字のごとく速く歩く競走で、走った場合に失格となる“歩法”に関するルールが定められているなど、現在行われている平地競走(以降、平地)とは一線を画す競走形態である。

 この速歩競走には2種類あり、騎手が平地競走のように馬に乗る「騎乗速歩競走(以降、騎乗)」と、繋駕(けいが)と呼ばれる1人乗りの馬車に騎手が乗って操縦する「繋駕速歩競走(以降、繋駕)」がある。岩手では戦前から平地に加え、騎乗や繋駕を実施していたが、戦後は次第に繋駕のレース数が増えていき、いつしか1日の過半数を超えるまでに拡大・発展していった。

レースで使用する繋駕
レースで使用する繋駕



 繋駕が岩手で発展したのは取り巻く環境にあった。この時代は戦後の馬不足に悩む主催者もあり、特に中央の関西地区が深刻だった。そこで中央では毎日でもレースに出走させることができる繋駕を、関西地区に限り導入していた。これを縁の下で支えていたのが岩手で、地方競馬で繋駕を実施していた主催者は岩手や北海道など限られていた上、北海道では地理的に遠すぎたため、岩手がその供給地として注目された。そのため、岩手で活躍した馬は中央の関西へと数多く売られるようになり、それに連動して岩手で繋駕が発展していった。

 さらに、この時代に詳しい佐野榮治氏が「岩手の人にとって、馬は輸出(ここでは県外の意味)して外貨を稼ぐ手段だった」と語る、戦前から続く馬に対する意識にも着目しなければならない。戦前から馬産地として、軍馬の供給地として発展していた岩手は、馬が売れることによって手にした外貨によって、地元の経済を支えなければならなかった。
 つまり岩手で行われていた繋駕は、育てた馬を高く売るための能力検定の場としてだけでなく、地元の経済を支え、発展させる基幹産業の1つとして大きな役割を担っていた。また、岩手の競馬がそのように位置づけられるために繋駕を選び、その発展に向けて努力することを選んだとも言えるだろう。

繋駕の決勝写真
1957(昭和32)の水沢競馬場における繋駕速歩の決勝写真。この年から盛岡に先立ち決勝写真が導入された。
水沢競馬場は戦後、競馬を再開する際に、それまでの1周1600mから1200mへと走路を縮小している。/出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)


<次回は6月下旬頃掲載予定です>
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第12回 自治体競馬の時代-競馬を求めた旅路

 現在、日本の競馬に参加している騎手や調教師は、事実上特定の主催者に“所属”している。それは所属がもたらす一種の既得権を背景に活動しているためで、それが及ばない主催者への参加は現在もなお、高いハードルが残っている。

 しかし、戦前や戦後直後の時代は個々の競馬場での開催回数が少なく、地方競馬の中ではいわば“来る者は拒まず”。そのため競馬を求めて各地を渡り歩く人は少なくなかった。岩手の場合、その姿勢に盛岡と水沢で大きな差があったとされている。

 水沢の場合、競馬に参加していた人は元々農家であり、農作業を放り出して県外に遠征することはほとんどできなかった。そんな彼らの唯一の遠征先は盛岡で、盛岡開催の時は盛岡に行く人と、その人に馬を預けて農地を守る人と役割分担していた。ただし盛岡への遠征は積極的で、彼らのための厩舎(出張馬房)を旧盛岡競馬場に造る必要に迫られるほど多くの遠征があった。

 これに対し盛岡には、競馬を生業としていた専業調教師がいた。中でも櫻田浩、小西善一郎、大和正四郎の3人は“御三家”とも呼ばれた盛岡の競馬における中心的存在だった。専業調教師の収入は競馬の賞金だけ。そのため東北地区を中心に、競馬を求めて旅に出る生活を送っていた。

 その中の1人で、全国の競馬場を渡り歩いたという小西善一郎氏に生前伺った話では、遠征はかなりの大所帯で、多い時で10頭以上の馬に、別当(現在でいう厩務員)を引き連れていた。また、当時は馬の輸送に貨車を使っていたが、一度、仙台の長町操車場(注)を経由しなければ目的地に行けなかったという。しかも長町で2~3日待たされることもあり、その間は馬を貨車から出せないなど、遠征にはかなりの苦労がつきまとった。

 しかし、1周1600m、幅員30mという大競馬場を有していた青森競馬場が1951(昭和26)年に廃止となるなど、戦災復興という目的達成や、財政競馬としての役割を担えなかったことから、渡り歩く先となる競馬場は姿を消していった。その逆に、岩手での開催が徐々に増えていったことから、岩手を安住の地として岩手の競馬を盛り上げる強い馬を生み出すことに専念したのである。

(注)操車場とは鉄道物流の拠点となる貨物専用駅のこと。長町操車場は総面積60万㎡を有し、東北随一の規模を誇った。

1954(昭和29)の盛岡競馬場のレース風景
1954(昭和29)の盛岡競馬場のレース風景/出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)


<この記事は月2回掲載です。次回は5月23日(土)に更新します。>

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第11回 自治体競馬の時代-入り乱れた主催者

 1948(昭和23)年の競馬法施行により、地方競馬の主催権が都道府県などに与えられた。そしてこの時が戦前の“軍馬育成”から、戦災復興など自治体の財政に寄与する“財政競馬”に競馬の存在意義が変わった瞬間でもあった。さらに競馬以外の公営競技(注)も次々と誕生し、これらが自治体の“金のなる木”として利用されるようになった。なお、岩手県には競馬以外の公営競技場の設置および開催の記録はない。

 この時代は、県の畜産課が騎手免許などを発行する業務を行っており、県が主導的な役割を担っていた。しかし現在の岩手競馬が、その全開催を1964(昭和39)年設立の岩手県競馬組合(以降、組合)が主催しているのと違い、開催ごとに主催者が違っていた。

 県営競馬は競馬法施行の1948年より毎年、盛岡・水沢の両競馬場で開催を行ったが、市町村で岩手競馬の主催者となったのは、競馬場所在地として1952(昭和27)年に開催権を認められた盛岡市と水沢町(後の水沢市、現奥州市)に加えてもう1つ、一関市がある。一関市が主催者となったのは、1947(昭和22)年のキャサリン台風、1948年のアイオン台風により、甚大な被害を受け“災害市”の指定を受けたことによるもので、1949(昭和24)年より旧水沢競馬場にて一関市営競馬を開催した。

災害被害を受けた一関市の写真
1948年のアイオン台風で被害を受けた一関市(一関市役所付近)の様子。一関市ではこの台風で死者248人、家屋の流失・倒壊約1,600戸などの被害を生み、その被害総額は22億円を超えた。(「一関市史 第三巻」より)


 このように4つの主催者が入り乱れていた岩手競馬だが、このうち盛岡市営競馬が1953(昭和28)年からの2年間のみで休止となると、その後は盛岡では県営競馬のみが、水沢では水沢または一関市営競馬を中心に行なわれた。ただし、主催者が代わっても競馬の内容が変わるわけではなく、また賞金額も県営競馬の基準に市営競馬が合わせていたので、競馬に参加する関係者もファンも“どこで競馬をやるか”は大事でも“誰が主催者なのか”は意識していなかったはずである。

(注)競馬以外の公営競技のスタートとその発祥地
競輪:1948(昭和23)年・小倉(福岡県)
競艇:1952(昭和27)年・大村(長崎県)
オートレース:1950(昭和25)年・船橋(千葉県) ※当初は船橋競馬場の内馬場に造られた

県営競馬のポスター

1950年の岩手県営競馬の開催告知ポスター(一條八平太氏提供)


<この記事は月2回更新です。次回は5月9日に掲載予定です。>

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第10回 進駐軍慰安競馬と一條友吉の生涯(3)

・岩手競馬再興の時

 話を進駐軍慰安競馬に戻す。友吉は一方で、岩手県内での競馬開催時に開催委員として名を連ねたり、1931(昭和6)年に友吉自らが開いた「黄金育成牧場」で生産・育成を手がけた馬が岩手で活躍するなど、戦前の岩手の競馬に深く関わっていた。そして戦後、軍馬資源保護法が廃止され、軍馬育成という競馬の大義名分を失った中で競馬を再開するために、進駐軍の力が必要と感じていた。そこで進駐軍の慰安という名目を立てるとともに、その主催者となる盛岡振興競馬倶楽部を設立。自らその開催委員長として1946(昭和21)年10月5日・6日に進駐軍慰安競馬を開催することとなった。

 しかし日々の食べ物にも困るこの時代、開催に向けて多くの苦労も伴った。一條友吉の息子で、現・一條家当主の一條八平太氏は「競馬をやるために金がないからといって、家にあった馬の置き物を知人に譲って工面しましたし、やるとなったら出走表の印刷や配当の計算など、家族総出で手伝いましたからね」と振り返るように、いかに友吉が情熱を持って競馬の再開にむけて邁進していたかが伺える。

 そしてようやく準備が整った開催当日、場内にはトマトなど畑で取れたものを売る人や、芋煮をふるまう店も出るなど、戦後の娯楽がほとんどない時代に5千人以上の人が競馬場に詰め掛けた。そして馬券の売上も盛況であり、2日間で50万円以上を売り上げ、岩手競馬は再興への歩みを踏み出した。

・そして自治体競馬へ

 この直後に地方競馬法が制定され、翌1947(昭和22)年には県馬匹組合連合会主催で盛岡・水沢競馬を開催。さらに現在の競馬法が1948(昭和23)年に施行されると、主催者は県などの自治体へと移り、岩手競馬の歴史はつながれた。その道を切り開いたのが進駐軍慰安競馬であり、その委員長を務めた一條友吉だったのである。

 ただし、1949(昭和24)年に友吉がその生涯を閉じた時、その死を最も大きく伝えたのは、日本でも岩手でもなく、サラブレッドの魅力を友吉に教えたアメリカだったという。それはこの時、その生涯と功績を、日本の競馬界は理解できていなかったからかも知れない。

 それから長い月日が経った今も、実は日本の競馬界にこういった偉人たちを語り、伝えていくための環境や制度を本当の意味で手にしていない。その環境が与えられた時に、友吉にその資格があるかはまた広い議論が必要だろうが、友吉に限らず、その議論の機会すら与えられない競馬界の偉人たちをどれだけ捨てていけば、日本の競馬界はその大きな損失に気がつくのだろうか。

進駐軍競馬出馬表
1946(昭和21)年10月5日の進駐軍慰安競馬の出走表。この中には農耕馬や馬車馬もいれば、数十万単位で取引された高馬もいた(一條八平太氏提供)


<この記事は月2回更新です。次回は4月25日に掲載いたします。>

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第9回 進駐軍慰安競馬と一條友吉の生涯(2)

・サラブレッド界の先駆者として

 日本に戻ってきた友吉は、海外の競馬を見てきた経験から、軽種馬の血統登録の重要性や品種改良の必要性を感じ「日本サラブレッド協会」の創設を提唱した。ここで軽種馬の血統登録を進めることで、日本の馬産に血統の大切さを伝えた。その後も友吉は幾度となく海外に渡り、世界の馬産地の現状や競馬事情を見てきたことから、1930(昭和5)年に下総御料牧場から繁殖牝馬の輸入を委託された。

 この時、日本に導入されていた血がヨーロッパ系に偏っていたことを懸念していた友吉は迷わずアメリカを目指し、その知名度も活かしながら6頭の繁殖牝馬を選定し、自ら日本に向かう船の中で世話をしながら輸入した。

 すると“星”のつく名を与えられたこの繁殖牝馬の直仔から、1937(昭和12)年のヒサトモ(母「星若」)、1939(昭和14)年のクモハタ(母「星旗」)と2頭の日本ダービー優勝馬をはじめ、多くの優駿を輩出した。さらに星友が宿していたアメリカ三冠馬セクレタリアトの仔・月友が3頭の日本ダービー馬を輩出するなど、その血は今もなお日本競馬を支える礎となっている。

 そして現代の岩手競馬でも、岩手所属馬として2頭目の統一グレード競走優勝(1999(平成11)年・東京盃)を果たしたサカモトデュラブ(8代母が「星若」)や、2004(平成16)年から2年連続で岩手競馬最優秀ターフホースに選定されたサイレントグリーン(父・サニーブライアンの6代母が「星谷」)など、その血を受け継ぐ名馬たちが競馬場を盛り上げたのである。

設立趣意書
日本サラブレッド協会創立趣意書より その最初の1ページ

日本サラブレッド協会の創立趣意書の一部。この中には一條友吉が欧米で見て感じたと思われる記述も数多く含まれる他、早急な日本ダービー創設を提言するなど、先進的な内容も盛り込まれていた(一條八平太氏提供)

<この記事は月2回更新です。次回は4月11日に掲載いたします。>

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