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第18回 組合設立と水沢競馬場移転(5)-生まれた副産物

 水沢競馬場の移転には多くの苦労が伴ったことをこれまで記してきたが、これにより生まれた副産物にもいくつか触れておきたい。

・盛岡連続開催の好況により、盛岡市が組合参加へ

 組合設立初年度の1964年は合計11開催(66日間)が行なわれたが、水沢の開催は移転最初の開催となった1開催のみで、それまでの10開催は盛岡競馬場での連続開催(通年開催)を余儀なくされた。これには組合設立以前、盛岡は水沢と比べて売上が少なく存廃が論じられたこともあったため、組合設立初年度は売上の低迷が予想され、赤字決算止むなしの声もあったという。

 しかし蓋をあけてみれば盛岡競馬は入場者、売上とも開催ごとにレコードを塗り替える活況を呈した。これは毎週のように競馬が行なわれたことで、盛岡に競馬が浸透し、ファンが増えたことが大きな要因といわれている。結果として組合初年度の売上は前年度の県営・市営競馬合計約2億1600万円から約33%増(開催平均では約20%増)となる約2億8800万円となり、初年度から黒字決算を達成した。結果的に水沢競馬場の移転が盛岡競馬を宣伝する機会となり、この成功を受けて組合参加を見合わせていた盛岡市は翌1965(昭和40)年からの組合に参加。以来今日まで岩手県・水沢市と共に組合を支えて続けている。

昭和39年の盛岡競馬場スタンド

レース風景

1964(昭和39)年の盛岡競馬場。1枚目はスタンドの様子で、2枚目がレース中のもの
出典/「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

・新競馬場の借金は4年で完済へ

 その組合は以前も紹介したように、水沢競馬場建設にかかる費用を全額負担しており、最終的に5500万円に膨れ上がった総工費が、そのまま借金として組合の肩にのしかかった。組合は10年近くで返済する計画を立てていたとされるが、一部には百年かかっても返せないという悲観論もあった。

 しかしこの当時、岩手県には新幹線や高速道路(注)の建設計画が進められており、その経済効果は胆江地方(水沢市を中心とした周辺の内陸地域の総称)だけで数百億円規模にのぼるといわれた。
 同時に、水沢競馬場移転の1964(昭和39)年、中央競馬でシンザンが史上2頭目の三冠馬となったことをきっかけに起きた競馬ブームが、岩手では先に触れた経済効果を背景に競馬にも波及したとされている。

 こういった時代背景を受け、組合は2年目以降も前年比約50%増という飛躍的な売上増を繰り返し、設立4年目の1967(昭和42)年に年間売上は10億円を突破。いきおい返済も当初の予定を前倒ししてわずか4年で完済することができた。

(注)東北新幹線は1971(昭和46)年起工、1982(昭和57)年開業(当時は大宮始発)。東北自動車道の岩手県内ルートは、一関-盛岡南間が1977(昭和52)年に開通したのが最初。

売上高推移表

県営・市営競馬時代から組合設立初期(1948・昭和23~1967・昭和42)までの売上高推移
出典:「地方競馬史3(地方競馬全国協会)」および「いわての競馬史(岩手県競馬組合)より

・騎乗速歩が岩手での歴史にピリオド

 ところで1964年を最後に岩手競馬における歴史を終えたものがある。騎乗速歩がそれで、繋駕速歩の全盛期を迎えていた岩手では同じ速歩でも“騎乗より繋駕”の考えが定着していた上に、この時実施していた主催者(注)もほとんどなく、在籍頭数の減少により番組を編成できなくなったためである。騎乗の最後は特段のイベントもセレモニーも、そしてニュースバリューもなく、ひっそりと姿を消したが、岩手競馬の歴史に大きな役割を担った事実は揺らぐものではない。

(注)騎乗が最後まで行なわれていたのは益田(島根県)で、1972(昭和47)年9月を最後に廃止された。
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| 水沢競馬移転 | 12:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第17回 組合設立と水沢競馬場移転(4)-歴史を繋いだ突貫工事

 3ヶ月がいかに短いか。規模が違うとはいえ、オーロパークの建設に5年の月日を要した(1991年(平成3)2月起工、1996(平成8)年4月オープン)ことを考えればその突貫工事ぶりを理解していただけると思う。しかもこの場所は歴史的に1947(昭和22)年のキャサリン台風などの水害によって、北上川の流れが幾度となく変わっていた場所で、当時を知る人は「昔は今の競馬場のコースやスタンドを横切るように堤防があった」と指摘している。

 さらに予定地は沼地が多く残り、また長芋の栽培も盛んに行なわれていたため、地盤は悪かった。そのため土地の安定が要求される競馬場を、しかも短期間に完成させるために路盤整備に使用したものが“畳”だった。当時をよく知る元組合職員の佐藤栄亀氏は「沼地を埋めて整地するだけでも大変だった。けれどそれだけでは路盤を安定させられなかったので、3コーナーから4コーナーの辺りを中心に畳を敷き詰めることにした。それでようやく地盤が安定してコースの整備に取りかかれた」と振り返っている。

 常識外れといえるだろうこの手段によって、工事は一気にスピードアップした。そして10月の末にコースは完成すると現役騎手による試乗会を開催し、そこで彼らは「これなら開催できる」と語ったことで開催にゴーサインが出された。

 そして組合営第1回水沢競馬は1964(昭和39)年11月21日、当初の予定から2週間遅れでスタートした。期間中に2度雪で順延となるなど天候には恵まれなかったが、盛岡から観戦バスが出るなど待ちわびたファンは熱心に新水沢競馬場に足を運び、この1開催(6日間)で約1万人の観客が訪れた。この開催によって水沢競馬は廃止の危機を脱するとともに、組合初年度の開催を成功裏に終了することとなった。

 ちなみにこの時新水沢競馬場(以降、水沢競馬場)に完成していたのは1周1200mのコースと平屋のスタンド、それと厩舎が100馬房。短い工期ゆえ、水沢競馬開催にこぎつけるための最低限の施設として間に合わせたもので、その後水沢競馬場はスタンドの増改築、厩舎の増設などを繰り返し、現在の姿になっている。

1964(昭和39)年に移転した水沢競馬場

1964(昭和39)年に移転した水沢競馬場。写真は1970(昭和45)年頃のもの(出所:岩手県競馬組合「岩手県競馬組合30周年記念誌」)

| 水沢競馬移転 | 10:30 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第16回 組合設立と水沢競馬場移転(3)-決まらない移転先

 話は競馬場移転に戻るが、水沢競馬場を移転する方針は決まったものの、実際の移転先はなかなか決まらなかった。それは市内各地から競馬場誘致の陳情が相次いだためで、その先鞭をつけたのが1963(昭和38)年1月末に水沢市に誘致の陳情を行った安久戸地区であった。その後立て続けに佐倉河地区、真城地区など陳情が相次ぎ、最終的には10箇所にも及ぶ陳情が舞い込んだ。

 この中で有力とされたのが佐倉河地区の桜木橋付近であった。水沢市の北部・北上川の河川敷に位置していたこの候補地は、建設省(当時)が管理していた土地で、水沢市はこの土地を無料で借りることで建設費を安くあげられるという皮算用があった。また地域住民も、市境が近かった江刺市(当時)を含め歓迎モードだったことから、組合設立の方針が決まった1963年11月に佐倉河地区を移転先に選定。あとは旧建設省が土地の使用許可を出せば、建設にゴーサインが出るはずだった。

 しかし水沢競馬が新競馬場で行なわれるはずの1964年、この計画に暗雲が立ち込める。新競馬場予定地の土地を建設省から借り受けようと申請したところ、なかなか許可が出ず、関係者をいらだたせた。それが次第に許可が下りないのではとの声になり、このままでは水沢競馬の歴史が潰えるという危機感へと変った。すると競馬関係者が多く在住していることを訴えて当初の選定時に最後まで佐倉河地区と競り合った笹森地区と、最初に誘致の陳情を行いながら佐倉河地区が有力と伝えられると混乱は好ましくないとして陳情を取り下げていた安久戸地区が、誘致活動を再開させたのである。

 結果的に佐倉河地区は、予定地のすぐ上流の区域で工事の予定が入っていた関係などから建設省から許可が下りないことが明らかとなり、組合は5月に建設断念を決断。改めて笹森、安久戸の両地区を候補地に選定作業を行い、競馬場建設が容易と考えられたことなどの理由で、改めて安久戸地区の小谷木橋付近を選定して、用地買収に向けた交渉を開始した。

 しかし約1万5千坪に及ぶ用地買収の交渉は、一時、旧競馬場を1年限定で借りての水沢開催実施が模索される程に難航した。それは元々開発に向かない土地であることに加え、この年の東京オリンピックも含め高度成長期にあったことから、地主にとって高く売る好機となったためである。結局買収に目処が立ち、工事がスタートしたのは夏も盛りの8月。この時、年度最終開催として予定されていた新競馬場での開催は11月7日からと発表されており、それまであと3ヶ月と迫っていた。

新聞資料

佐倉河地区への移転断念を伝える胆江日日新聞の記事(資料引用:1964年5月23日付「胆江日日新聞」より)

地図資料

競馬場所在地とその候補地 ①旧水沢競馬場 ②現水沢競馬場 ③当初の移転予定地であった佐倉河地区の桜木橋付近 ④熱心な誘致活動を行なっていた笹森地区(地図引用:国土地理院 1/25,000地形図「水沢」より一部編集のうえ使用)
※おことわり・上記地図は「テシオ」2002年12月号の「いわて競馬今昔物語」でも掲載しておりましたが、新たな事実が判明したことを受け、一部地点を変更しております。

| 水沢競馬移転 | 10:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第15回 水沢競馬場移転と組合設立(2)-組合設立の背景

 地方競馬の歴史を語る上で、地方競馬全国協会(以降、NAR)の設立などが定められた1962年の競馬法改正を避けて通ることは出来ない。というのもこの改正により、地方競馬の主催者を原則都道府県に限ると改正されたためであり、この改正競馬法の素案が明らかになった当時、各地方競馬主催者には大きな動揺が広がった。

 それは地方競馬の開催に関わっている多くの市区町村が開催権を失うためであり、南関東を中心に全国の主催者から反対の声が上がった。もちろん水沢市と一関市もこの声に足並みを揃えていたが、一方で継続して岩手競馬を主催する(岩手競馬から収益を得る)立場を維持するため、県ともに一部事務組合(注)を設立することが不可欠と判断した。

 実はこの時、改正競馬法議論とは別に、既に業務の効率化を目指して主催業務の一元化に向けた検討が始まっていた。そこには1953(昭和28)年を最後に市営競馬の開催を休止していた盛岡市から、開催復活を検討しているという声が届いていたこともあり、盛岡市営競馬復活の際の受け皿となることも含めて検討は進められていた。

 ところが盛岡市は一貫した方針を示さなかったため、組合に盛岡市が加わるかどうかで混乱した。さらに新たな課題として、1964年の水沢競馬場移転にかかる4千万とも5千万ともいわれた建設費用を、水沢市と組合のどちらが負担するのかでも話し合いは思うように進まなかった。

 最終的な方針が決まったのは1963年11月のこと。その内容は、岩手県・水沢市・一関市を構成団体として組合を設立し、1964年度より岩手競馬の全開催は組合が主催することが、そして新水沢競馬場の建設費用は組合負担とすることで決着した。

 なお、競馬法改正に伴う市区町村の開催権については、競馬場所在地および災害指定を受けていた自治体には暫定的に開催権を認められた。しかし競馬場所在地については、年間1開催以上実施しなければ開催権を失うとされたことが、後に組合に無言のプレッシャーを与えることになる。なぜならこの時、新水沢競馬場は着工すらされていなかったのだから。

(注)本来は行政サービスの一部を複数の自治体が共同で行うために設立するものだが、公営競技主催団体として設立されることも多い。なお、地方競馬で主催者の一元化が実現していない競馬場は金沢(石川県営・金沢市営)のみで、その他は組合営もしくは単一自治体の主催である。

馬検場

岩手県競馬組合設立時から1970(昭和45)年まで、盛岡市松尾町の旧馬検場に組合事務所があった。現在は旧・競馬会館にあった親子馬像「春風」が移設されている。

<次回は8月8日(土)に掲載いたします。>

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第14回 水沢競馬場移転と組合設立(1)-それは土地返還要請から始まった

 戦後、岩手競馬は年々売上を伸ばすとともに開催日数も増加し、県民の娯楽として発展を続けていた。しかし、その流れを阻害しかねない難題が1961(昭和36)年に表面化した。それが旧水沢競馬場の地主による土地返還要請を端とした存廃・移転問題であった。

 これは旧水沢競馬場が農地を転用した借地が多く、地主たちは周辺の宅地化が進んだことにより競馬場に貸すよりも宅地化や開発のために転用してもらった方が利益になると考えたこと。また当時赤字再建団体であった水沢市の財政について、改善が進んでいて近いうちに競馬の収益がなくとも健全化すると指摘し、その理由とした。そして彼らは1961年11月に、1963(昭和38)年度を最後に水沢競馬を廃止し、土地を返還することを求める請願を行った。

 これに対し行政サイドは、水沢市はもちろんのこと、市営競馬を水沢競馬場で行っていた一関市も財政の基盤を失うため、存続を前提として土地問題への対応に当たった。また競馬関係者も、長年水沢の地を支えていた文化であることを訴え、また水沢が廃止されれば盛岡競馬の将来にも悪影響を与えかねないとして、存続に向けて努力することで一致していた。

 この中で旧水沢競馬場の所有関係が複雑だったこと、地主の土地を買収するには数億規模の費用がかかると見積もられたため、現在地での存続は困難という判断に傾いた。これを受け、この渦中にいた当時の水沢市長・佐藤哲郎は1962(昭和37)年5月に「廃止は考えておらず、移転により水沢競馬を存続させる」方針を議会に示し、これをきっかけに競馬場移転に向けた議論が一気に加速した。

 その結果、旧水沢競馬場に隣接していた水沢公園を都市公園の指定を受けることとし、旧水沢競馬場の土地の一部も転用して市の総合グラウンドとして整備。そして水沢競馬は1964(昭和39)年から移転後の新水沢競馬場で開催する方針が示されたのである。

佐藤哲郎氏
水沢競馬場移転に取り組んだ当時の水沢市長・佐藤哲郎氏(「水沢市史 5」より)



胆江日日新聞
1962(昭和37)年の胆江日日新聞による胆江地方の十大ニュース(読者投票)に、競馬場移転のニュースがランクイン。競馬ファンならずとも大きな注目を集めたことが伺える。(1962年12月29日付「胆江日日新聞」より)


<次回は7月11日(土)に更新します。>

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