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第31回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(5)

 優子氏はさらなる飛躍を目指し、1973(昭和48)年のシーズン終了後のオフを利用して、武者修行として紀三井寺競馬場(和歌山県・1988(昭和63)年3月廃止)で騎乗すると、約2ヶ月の期間中に5勝を挙げた。そして新年度の岩手競馬で成長した姿を披露しようと、活躍を誓って6年目のシーズンがスタートした。

 しかしシーズン開幕から1ヶ月ほど経った1974(昭和49)年5月17日。優子氏は急性心不全で突然この世を去ることになる。享年23歳。実働5年1ヶ月にわたる生涯成績1776戦209勝(岩手県外を含む)は、女性でなくとも若手騎手として将来を嘱望されるには十分な実績といえよう。そして現在もなお「優秀な男性騎手とも互角の技量を持つ、日本の競馬界における史上最高の女性騎手だろう」と現役時代を知る人から評される騎手を失ったことは、岩手競馬のみならず日本の競馬界全体の大きな損失であった。

・引き継がれた魂

 この時、水沢競馬場の厩舎には、高橋優子の存在によって女性でも騎手になれることを知り、その夢を実現させるために彼女を慕って岩手にやって来た1人の女性が腕を磨いていた。その女性・・・吉田弥生は、高橋優子の死から2年後の1976(昭和51)年に日本競馬史上3人目の女性騎手として岩手からデビューし、彼女の魂は引き継がれた。この時、後を追う者が岩手にいなかったら、もしかしたら日本における女性騎手の歴史はこの段階で終焉を迎えていたかも知れない。

 その後岩手以外でも女性騎手は誕生し、多くの女性騎手が競馬界に足跡を残している。その歴史の第一歩を岩手競馬が記したのは、古くから馬とともに生きてきた岩手県の歴史風土が、騎手を目指す勇気を持つ女性を生み、それを皆が受け入れる土壌を築いていたためではなかっただろうか。

 さらに組合が女性騎手の存在を、また女性でも騎手として活躍できることを広める努力を続けたことも忘れてはならない。その取り組みについてはまた別の機会に詳しく紹介する機会を設けたい。

普段着姿の高橋優子氏
普段着姿の高橋優子氏を収めた貴重な1枚 出所/「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

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高橋優子氏の最後の勝利となった1974(昭和49)年4月28日・水沢競馬第1レースの成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)
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第30回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(4)

 高橋優子の存在そして活躍は、それまで社会的には男性社会の象徴の1つと見られていた競馬界に風穴を開けた。また競馬界の内部から見ても、女性騎手が誕生したというだけではなく、女性でも優秀な技能を持つ騎手が登場する事を証明したことは衝撃以外の何者でもなかったであろう。それゆえ優子氏は新聞の社会面やテレビへのゲスト出演などを通じ、その生い立ちや活躍ぶりが紹介されるようになった。

 その象徴的な出来事として、1971(昭和46)年に大晦日恒例のNHK紅白歌合戦に審査員として出演したことが挙げられる(注)。紅白の審査員といえば“その年の顔”や“時代の旬”の人が数多く選ばれることから、いかに優子氏が世間から注目されていたかが伺える。と同時に、地方競馬関係者の紅白出演は他に例がなく、その意味では地方競馬史における快挙と言って過言ではないだろう。

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高橋優子氏を紹介する河北新報の記事(1971(昭和46)年2月5日付「河北新報」(「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)より転載))


 また、厩舎での優子氏は馬運車の運転手という役割も担っていた。この当時の盛岡⇔水沢間の輸送は、各厩舎が自前で持つ馬運車で輸送していたが、高橋武厩舎には大型免許を持つ者がいなかった。そこで優子氏は大型免許を取り、盛岡開催に出走する馬を積んだ馬運車のハンドルを握ったのである。盛岡開催の時は夜中に調教に乗った後に馬運車に馬を積み、運転をして到着すればすぐレースに騎乗する。そしてレースが終われば休む間もなく再びハンドルを握り、来た道を戻って来る厳しさだった。

 そういった日々を積み重ねる中で、優子氏の手綱捌きはより一層磨きがかかり、3年目以降もコンスタントに勝ち星を積み重ねた。その成長ぶりを見守っていた父・武氏は「いずれは調教師となって、女性でも馬を育てる仕事ができることを示してほしい」という夢を抱くようになっていた。

(注)この時の優子氏は競馬場での勝負服姿とは違う着物姿を披露している。なお、この時の映像はNHKの映像ライブラリー「NHKアーカイブス」(埼玉県川口市)ほか、全国のNHK地方局等で視聴できる。

騎乗合図を待つ高橋優子
騎乗合図を待つ高橋優子氏(右端) 出所/「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

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パドックでの高橋優子氏 出所/「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

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第29回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(3)

 初年度に19勝を挙げ、順調に階段を上り始めた高橋優子は、デビュー2年目となった1970(昭和45)年に大きな飛躍を遂げる。シーズン開幕から順調に勝ち星を積み重ね、その実力を関係者やファンから認められるようになっていった。

 そのような中、彼女はニュースターエイトとのコンビで大きな注目を集める。この馬は父・高橋武厩舎の所属馬で主戦騎手として手綱を取っていたが、この馬とのコンビで7月の水沢競馬で1600m1分42秒5のコースレコード(注)を叩き出すと、その翌月、前年に新設された日高賞に駒を進めた。

 単勝1番人気の支持を受けたこのレースでライバルとなったのが、時のリーディングジョッキーであった小西重征氏が手綱を取るマルマンチカラで、レースも最後はこの2頭のマッチレースとなった。しかし最後まで勝利を信じて追い続けた結果、最後に競り勝ち、優子氏は初のビッグタイトルを掴み取ったのである。

 こうして自信をつけていった優子氏は、当時の岩手競馬で最高賞金レースだった農林大臣賞典で、南関東時代にニューイヤーCとNTV盃(現在の日本テレビ盃)を制した古豪・ツルハゴロモとのコンビで参戦するチャンスが巡って来た。ツルハゴロモは岩手移籍後もA級(オープン)の常連として活躍していたが、往時の活躍の関係で絶えずトップハンデを背負っていたため“勝利の見込みが薄い”と有力騎手から敬遠されることが多かった。今回も同様に直前まで決まらなかった中で、テン乗りになる優子氏に白羽の矢を立てたのである。

 レースは出入りの激しい乱戦となった。後方からのレースとなったツルハゴロモは、3コーナーから一気に仕掛けて直線で一旦先頭に立ったものの、すぐに1番人気だったスパートターフ&小西重征のコンビに捉えられ、万事休したかに思われた。だが、彼女はあきらめていなかった。左ききだった優子氏の左ステッキで叱咤激励されたツルハゴロモは、再び勢いを取り戻すとゴール直前で差し返し、栄光のゴールに飛び込んだのである。

 こうしてデビュー2年目を終えた優子氏はこの年、57勝をマーク。すると高橋優子の名前は岩手競馬の枠を超えて広まっていくようになる。

(注) 当時の水沢1600mはダッシュのつきにくいコーナースタートの時代で、現在使用されている1600mのシュートが作られたのは1982(昭和57)年のことである。

農林大臣賞典の成績表
高橋優子氏が優勝した農林大臣賞典(1970年11月15日水沢競馬第9レース)の成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)

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第28回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(2)

 優子氏の決意を聞いた両親は驚いた。これがもしクニ氏が騎手を目指す前ならば「女の仕事ではない」と反対できたかも知れないが、2人とも現役の騎手である。自らが職とする仕事に飛び込んで来ようとしている娘の固い意思の前に、2人とも反対はせず「途中で投げ出すことだけはするな」と声をかけたという。

 ただし優子氏が目指したのは両親が活躍する繋駕ではなく(注1)、平地の騎手であった。そのため平地を専門的に教えられる所で教わった方がいいと考えたが、1964(昭和39)年に栃木県に開所した騎手教養所(現・地方競馬教養センター)はまだ女性を受け入れる体制になかった。そこで教養所の教官から手紙で技術的な指導を受けることとし、併せて水沢の別の厩舎に下乗りとして預けられることになった。

 ところが優子氏は間もなく、落馬事故によって骨盤を骨折する大ケガを負った。この時、武氏は心配していた一方で「馬から落ちてケガでもすれば諦めると思っていたから、これでやめてくれると思っていた」と振り返っている。しかし優子氏は「自転車で転んだってケガをする。だから馬から落ちてケガをするのは当たり前だ」と言って意に介さなかった。その姿に武氏は感心するとともに、なんとしても騎手になるという強い意志を感じ取ったと語っている。

 その後ケガが癒えた優子氏は「手元に置いていては一人前の騎手になれない」と考えた武氏の意向もあり、長く親交のある新潟の河内義昭調教師(注2)の下で修行することになった。親元を離れた優子氏は「(騎手試験に)合格するまで岩手に帰らない」と心に決め、腕を磨いた。そして1968(昭和43)年の春に受けた試験では不合格となってしまうが、この年暮れに受けた2度目の試験で見事に合格。晴れて日本競馬史上初となる平地の女性騎手が誕生した。

 1969(昭和44)年4月20日に行なわれた水沢競馬の第6レース。ここで父・武氏が管理するキタノヒメとのコンビで初めて岩手の競馬ファンの前に姿を見せた。この初戦はシンガリ(5頭立て)に敗れ、その後もなかなか勝利まで届かなかったが、6月8日の水沢競馬でやはり高橋武厩舎のスイセンカクとのコンビで待望の初勝利を挙げる。すると男性騎手顔負けの力強い手綱捌きで勝ち星を積み重ね、高橋武厩舎の(平地の)主戦騎手として活躍を始めていった。

(注1)高橋武氏は繋駕中心の騎手ではあったが、平地にも騎乗していた。ちなみに高橋優子氏のデビュー2戦目で親子同時騎乗も果たし、その後も幾度か親子共演があった。

(注2)高橋武氏が手がけた“ホマレ”(連載19回参照)が新潟にトレードされたときの所属先。なお、河内義昭氏は河内洋・現JRA調教師の叔父にあたる。

高橋優子のレース中の写真
高橋優子氏の騎乗フォーム(出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」岩手県競馬組合)


初勝利の成績表
高橋優子氏が初勝利を挙げた際の成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)


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第27回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(1)

 「学校はやめた。騎手になる。先生とも相談して決めたから何としても馬をやる」

 この時代の岩手競馬を語る上で避けては通れない人物がいる。1969(昭和44)年にデビューした女性騎手・高橋優子がその人であり、この言葉は高校に入学して半年ほど経った頃に担任の先生と共に帰ってきた彼女が両親に対して語った、不退転の決意であった。

 実は高橋優子(以降、優子氏)の母は1966(昭和41)年に日本初の女性騎手としてデビューした高橋クニ氏であり、父は当時騎手兼調教師であった武氏である。この二女として1950(昭和25)年9月15日に生まれた優子氏は、馬が身近にいる生活の中で幼い頃から父の厩舎で馬と一緒に遊ぶことが多く、時には1人で厩舎から馬を出してきて、その馬に乗ることもあったという。

 しかし中学生になる頃から馬に触れる機会がほとんどなくなった。同世代の仲間たちと一緒にいる時間が増えたためである。中学では部活動に夢中だったことから、武氏は「もう馬には興味がなくなったのだろう」と思っていた。もっとも「女だから騎手になってほしいと思ったことはなかった」のだが・・・。

 ところが優子氏は中学の卒業を前に「馬関係の仕事に就きたい」と言い出すようになった。これを聞いた武氏は、中学を通じて宮内省などに相談してみたところ「女性は採用しない」と返事が返って来た。そのため優子氏は進路を変更し、高校に進学したが、ここで大きな“事件”が起こる。進学と時を同じくして母・クニ氏が騎手としてデビューしたのである。

 話をクニ氏が騎手を目指した時に戻す。クニ氏が騎手を目指すことに対して多くの批判や反対の声が上がることを予測した武氏は、勉強を始めたことを夫婦の秘密として、周囲だけではなく家族にも内緒にされた。優子氏はそのことに薄々気がついていたそうだが、それが現実になるとは思っていなかった。だがそれを実現させ、騎手となった母の姿を見るうちに、自分が夢を諦めたまま高校生活を送ることに次第に耐えられなくなっていった。

 そして優子氏は行動に移す。高校の担任にその思いを伝えた上で、両親を説得してもらえるように頼んだのである。

高橋優子氏
高橋優子氏(出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」岩手県競馬組合)



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