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第11回 自治体競馬の時代-入り乱れた主催者

 1948(昭和23)年の競馬法施行により、地方競馬の主催権が都道府県などに与えられた。そしてこの時が戦前の“軍馬育成”から、戦災復興など自治体の財政に寄与する“財政競馬”に競馬の存在意義が変わった瞬間でもあった。さらに競馬以外の公営競技(注)も次々と誕生し、これらが自治体の“金のなる木”として利用されるようになった。なお、岩手県には競馬以外の公営競技場の設置および開催の記録はない。

 この時代は、県の畜産課が騎手免許などを発行する業務を行っており、県が主導的な役割を担っていた。しかし現在の岩手競馬が、その全開催を1964(昭和39)年設立の岩手県競馬組合(以降、組合)が主催しているのと違い、開催ごとに主催者が違っていた。

 県営競馬は競馬法施行の1948年より毎年、盛岡・水沢の両競馬場で開催を行ったが、市町村で岩手競馬の主催者となったのは、競馬場所在地として1952(昭和27)年に開催権を認められた盛岡市と水沢町(後の水沢市、現奥州市)に加えてもう1つ、一関市がある。一関市が主催者となったのは、1947(昭和22)年のキャサリン台風、1948年のアイオン台風により、甚大な被害を受け“災害市”の指定を受けたことによるもので、1949(昭和24)年より旧水沢競馬場にて一関市営競馬を開催した。

災害被害を受けた一関市の写真
1948年のアイオン台風で被害を受けた一関市(一関市役所付近)の様子。一関市ではこの台風で死者248人、家屋の流失・倒壊約1,600戸などの被害を生み、その被害総額は22億円を超えた。(「一関市史 第三巻」より)


 このように4つの主催者が入り乱れていた岩手競馬だが、このうち盛岡市営競馬が1953(昭和28)年からの2年間のみで休止となると、その後は盛岡では県営競馬のみが、水沢では水沢または一関市営競馬を中心に行なわれた。ただし、主催者が代わっても競馬の内容が変わるわけではなく、また賞金額も県営競馬の基準に市営競馬が合わせていたので、競馬に参加する関係者もファンも“どこで競馬をやるか”は大事でも“誰が主催者なのか”は意識していなかったはずである。

(注)競馬以外の公営競技のスタートとその発祥地
競輪:1948(昭和23)年・小倉(福岡県)
競艇:1952(昭和27)年・大村(長崎県)
オートレース:1950(昭和25)年・船橋(千葉県) ※当初は船橋競馬場の内馬場に造られた

県営競馬のポスター

1950年の岩手県営競馬の開催告知ポスター(一條八平太氏提供)


<この記事は月2回更新です。次回は5月9日に掲載予定です。>
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第10回 進駐軍慰安競馬と一條友吉の生涯(3)

・岩手競馬再興の時

 話を進駐軍慰安競馬に戻す。友吉は一方で、岩手県内での競馬開催時に開催委員として名を連ねたり、1931(昭和6)年に友吉自らが開いた「黄金育成牧場」で生産・育成を手がけた馬が岩手で活躍するなど、戦前の岩手の競馬に深く関わっていた。そして戦後、軍馬資源保護法が廃止され、軍馬育成という競馬の大義名分を失った中で競馬を再開するために、進駐軍の力が必要と感じていた。そこで進駐軍の慰安という名目を立てるとともに、その主催者となる盛岡振興競馬倶楽部を設立。自らその開催委員長として1946(昭和21)年10月5日・6日に進駐軍慰安競馬を開催することとなった。

 しかし日々の食べ物にも困るこの時代、開催に向けて多くの苦労も伴った。一條友吉の息子で、現・一條家当主の一條八平太氏は「競馬をやるために金がないからといって、家にあった馬の置き物を知人に譲って工面しましたし、やるとなったら出走表の印刷や配当の計算など、家族総出で手伝いましたからね」と振り返るように、いかに友吉が情熱を持って競馬の再開にむけて邁進していたかが伺える。

 そしてようやく準備が整った開催当日、場内にはトマトなど畑で取れたものを売る人や、芋煮をふるまう店も出るなど、戦後の娯楽がほとんどない時代に5千人以上の人が競馬場に詰め掛けた。そして馬券の売上も盛況であり、2日間で50万円以上を売り上げ、岩手競馬は再興への歩みを踏み出した。

・そして自治体競馬へ

 この直後に地方競馬法が制定され、翌1947(昭和22)年には県馬匹組合連合会主催で盛岡・水沢競馬を開催。さらに現在の競馬法が1948(昭和23)年に施行されると、主催者は県などの自治体へと移り、岩手競馬の歴史はつながれた。その道を切り開いたのが進駐軍慰安競馬であり、その委員長を務めた一條友吉だったのである。

 ただし、1949(昭和24)年に友吉がその生涯を閉じた時、その死を最も大きく伝えたのは、日本でも岩手でもなく、サラブレッドの魅力を友吉に教えたアメリカだったという。それはこの時、その生涯と功績を、日本の競馬界は理解できていなかったからかも知れない。

 それから長い月日が経った今も、実は日本の競馬界にこういった偉人たちを語り、伝えていくための環境や制度を本当の意味で手にしていない。その環境が与えられた時に、友吉にその資格があるかはまた広い議論が必要だろうが、友吉に限らず、その議論の機会すら与えられない競馬界の偉人たちをどれだけ捨てていけば、日本の競馬界はその大きな損失に気がつくのだろうか。

進駐軍競馬出馬表
1946(昭和21)年10月5日の進駐軍慰安競馬の出走表。この中には農耕馬や馬車馬もいれば、数十万単位で取引された高馬もいた(一條八平太氏提供)


<この記事は月2回更新です。次回は4月25日に掲載いたします。>

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