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第26回 岩手競馬がテレビに進出・・・競馬中継元年でもあった1972年

 村上昌幸の大記録に沸いた1972(昭和47)年は、岩手競馬の発展にとって大きな1ページが記された年でもあった。それは初めて岩手競馬の実況中継が行なわれた年だからである。

 競馬中継の文字が新聞のラ・テ欄に初めて踊った(注1)のは1972年6月3日で、第1回盛岡競馬初日をIBC岩手放送(以降、IBC)テレビが中継したのが最初である。このきっかけとなったのは、上山競馬の競馬番組の評判が良いことを伝え聞いた組合や関係者から岩手でもやってみようという機運が高まり、スタートしたものであった。

 この時の中継では、解説者として水沢で代々続く馬一族である佐野家の当時当主であった(3代目)佐野玉吉が務めた。佐野氏は1970(昭和45)年の岩手国体の際にご来県された天皇皇后両陛下が、馬術競技をご覧になられるために水沢競馬場にご来場された際に“母衣引馬術”を供覧するなど、馬文化の継承者として広く県民にも知られていた。


佐野玉吉氏
 岩手最初の競馬中継で解説を務めた3代目佐野玉吉氏。この写真は1976(昭和51)年春の叙勲で勲五等瑞宝章を受章した時のもの/出所:「岩手の馬育成-私たちの歩いた道-」(社)競走馬育成協会




馬術供覧の写真
 天皇皇后両陛下が1970(昭和45)年開催の岩手国体で水沢競馬場にご来場された際に“母衣引馬術”を供覧する様子/出所:「岩手の馬育成-私たちの歩いた道-」:(社)競走馬育成協会


 当時の中継、というより実況にはかなりの苦労があり、1978(昭和53)年にIBCに入社した加藤久智アナウンサーによると「私が実況を始めた頃はゴールよりかなり手前にあった馬主席の前に即席の実況席を設けて、そこで喋っていました。つまり高いところではなくファンに近い目線で見ていた訳です。そのため、4コーナーに差し掛かったところで一度完全に双眼鏡で追えなくなってしまうこと。そして最後の直線が下り坂でコースがスタンドよりも下になるために、大外から伸びてくる馬が見えなかったことが何より難しかったんです」と振り返っている。

 その後競馬中継はテレビ岩手も参入し、平成になって開局した岩手めんこいテレビと岩手朝日テレビも中継に取り組んだ。特にIBCとテレビ岩手は競うように中継本数を拡大し、その中で神田勇、加藤久智、井上学(以上IBC)、鈴木直志、加藤浩(以上テレビ岩手)といった名物競馬実況アナウンサーを数多く輩出した。さらにIBCは全国でも数少ない女性の実況アナウンサー(注3)として村松文代、瀬谷佳子を起用したことでも注目された。

 一方、ラジオはレギュラー化したIBCに加え、FM岩手にも中継の経験がある。特に初めて実施した1989(平成元)年9月15日(準メインとしてFM岩手杯オータムカップを実施)の中継は、FM局による日本初の競馬中継といわれている。

 そして現在、テレビ中継こそ少なくなったものの、IBCラジオの『ドラマチック競馬中継』やFM岩手の岩手競馬情報番組『勝ちそー』のように、既に長寿番組の域を迎えている現在も続く競馬番組が数多く制作されていることが岩手競馬の発展を支えている。

(注1)組合では最初の実況中継は1971(昭和46)年の水沢競馬としているが、当時の新聞を確認したところ、生番組内で競馬場からのレポートを伝えるケースがあるものの“競馬中継”の文字は確認できなかった。

(注2)初代佐野玉吉については連載第5回参照

(注3)日本の女性競馬実況アナウンサー第1号はラジオ関東(現・ラジオ日本)の井口保子氏。その後、場内実況は現役の小枝佳代氏(ホッカイドウ競馬)を含め過去に数名いるが、いわゆる“局アナ”に限れば井口氏とIBCの2人しかいない。なお井口氏はFM岩手の最初の競馬中継でゲスト出演しており、この時実況も行なっている。

盛岡競馬場の写真
 テレビカメラがレースの模様を追う旧盛岡競馬場(1972(昭和47)年撮影)/出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

盛岡競馬場の実況席の写真
 旧盛岡競馬場の実況席の様子(1975(昭和50)年・桐花賞中継時のもの)/出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合))
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第25回 伝説の大騎手・村上昌幸の初リーディングまでの軌跡(2)

 1年目のシーズン終了後、村上昌幸氏は再び浦和に渡った。今度は実戦騎乗もあった武者修行。当時の南関東は佐々木竹見、高橋三郎といった日本の競馬史に語り継がれる名騎手をはじめとした人気ジョッキーたちがシノギを削っていた。そんな彼らと実戦の中で競い合った経験を岩手に持ち帰り、2年目からのシーズンに活かすことができた。

 また岩手ではデビュー当時からリーディングジョッキーに君臨していた小西重征氏(以降、小西氏)に積極的にアドバイスを求めていた。2人は盛岡と水沢で所属が分かれていたが、盛岡開催になると昌幸氏は毎日小西氏の部屋に足を運び、一緒にパトロールビデオを見ながら「俺がどう乗っているのかを見ながら、俺が何を考えて乗っていたのかばかり聞いて来ました」(小西氏)という。

 こうして96勝を挙げた2年目はリーディング2位に順位を上げ、いよいよリーディング奪取に期待がかかった3年目。開幕から快調に勝ち星を伸ばし、順風満帆のシーズンを過ごしていた。

 ところが好事魔多し。あるレースで失格となり、騎乗停止10日という厳しいペナルティを科された。この時のレースを昌幸氏は今も鮮明に覚えているという。

 「普段でも行儀の悪いところがあった馬でさ。逃げ馬なんだけど、その時もちょっとヨレて後ろに迷惑をかけた形になってね。でも乗ってる感覚だとそんなに迷惑はかけていない気がしたけど、結局失格になっちゃって・・・。その間はレースに乗れないのが辛かった」

 しかし18歳の若者は、復帰後も若さあふれる騎乗でほぼ毎日のように固め打ちを繰り返し、次第に独走態勢を築いていった。そして1970年に小西氏が記録したそれまでの年間162勝も突破した昌幸氏は、シーズン最終日の最終レースも勝利で締め、初のリーディングを当時不滅といわれた年間最多勝記録187勝で花を添えたのである。

 昌幸氏は「今となってみれば、騎乗停止がなければ200勝出来たかもって思うけれど」と残念がっていたが、この年の開催日数は現在よりも少ない90日で、うち10日を騎乗停止で乗れなかったことを考えれば、現在のような騎乗制限がなかったことを差し引いても驚異的な記録であることが伺える。

 またこの年の775鞍という騎乗数にも注目したい。実はデビュー当初はサウナで体重を落とせないことがあったほど体重調整に苦しんでいた。この騎乗数にはそれを克服し、持って生まれた素質を発揮できる騎手に成長したことを証明していた。そしてこの後、昌幸氏は毎年100勝前後の勝利を積み重ねながらリーディングの座を守り続けたのである。

デビュー当時の村上昌幸氏
デビュー当時の村上昌幸氏(提供:村上昌幸氏)

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