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第1回 馬とともに発展した岩手

 日本における近代競馬発祥の地は横浜・根岸であることは良く知られているところであるが、現在まで競馬が行われている街で最古の歴史を持つのが岩手・盛岡である。多くの偉人たちと馬を愛する人々がはぐくんできた岩手の競馬の歴史は、多くの栄光と苦難に満ち溢れたものであるが、長き歴史はその将来を保障するものではない。しかし、岩手の競馬に万一のことがあれば、岩手の馬文化の歴史だけではなく、日本の、そして世界の競馬産業の未来に、取り返しのつかない損失となることは間違いないだろう。
 かつて「テシオ」誌上で連載していた「いわて競馬今昔物語」を再構成・再編集するとともに、紹介することのできなかったテーマ・時代を含め改めて紹介していくことで、岩手競馬の価値を再確認していただく契機となることを祈念して再スタートの言葉としたい。

第1回 馬とともに発展した岩手

 岩手県の歴史を語る上で、馬にまつわる話題には事欠かない。例えば岩手競馬の重賞競走のひとつ「阿久利黒賞」の“阿久利黒”とは、801(延暦20)年にアテルイ(大墓公阿弖流為)が平安朝から巡遣された坂上田村麻呂に、武装解除の証として贈った伝説の名馬と言われている。また、1184(寿永3)年の宇治川の合戦で義経騎馬軍団が大勝利を収めたときに先陣争いを演じた「生唼・磨墨」の2頭も、南部馬の名馬として知られている。
 岩手県競馬組合(以降、組合)が、組合設立20周年を記念して1983(昭和58)年に製作した「いわての競馬史」によると、南部馬が幕府や諸大名に買われるようになっていったのが1600(慶長5)年ごろという。その後、江戸幕府による参勤交代制度が始まると、幕府は諸大名に、行列に参加できる馬を五万石あたり10頭と定めたが、二十万石だった旧南部藩には特別に、100頭の参加が認められた。この馬を引くために行列に加わったのは優秀な育成者たちであり、これらの馬を江戸で売って帰ることができたので、彼らにとって大きな名誉であったと同時に経済的にも潤ったという。
 一方で旧南部藩では、優秀な南部馬を保護する政策も取っていた。1600年代半ばより盛岡にて「南部馬市」(現在でいうセリ市)が始まったが、当時は藩外の者の参加は認められず、馬の移動も領内に限られた。それを1754(宝暦2)年に、賦金を徴収することで他藩からの参加を認める一方で、「総馬改」と呼ばれる制度を導入し、年2回の検査で上中下とランク付けを行い、上中馬の藩外への売却を禁止することで、優秀な南部馬の流出を防いだ。併せて、良馬の生産者に奨励金を出すことで、良質な南部馬の生産を奨励した。
 このように藩政時代から馬の生産・育成において一目置かれる存在であった岩手の地は、馬によって人々の暮らしを豊かにしてきた。また人間と馬が一つ屋根の下で暮らす「南部曲がり屋」や、元々は田植えが終った祝宴とその為に重労働をこなしてきた馬の無病息災を祈るものであった「チャグチャグ馬コ」が象徴するように、ともに生きる、生活になくてはならない身近な存在でもあった。そんな彼らにとって、祭りごとに馬は欠かせない存在であり、古くから盛岡での鎮守八幡宮、水沢での駒形神社などで、奉納競馬・祭礼競馬が数多く行われていた。

馬検場
1904(明治37)年から1912(明治45)年まで盛岡市馬町(現清水町)にあった旧馬検場(せり市場)の落成式の様子
(出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」 岩手県競馬組合)


<次回は12月27日掲載予定です>
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