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第2回 明治を駆け抜けた2人のホースマン

 1867(慶応3)年10月、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、武家政治に終止符が打たれると、明治新政府は富国強兵の掛け声とともに馬匹の改良と増殖を国策として位置づけ、それに応じて軍馬の需要が高まった。いきおい、藩政時代から生産・育成に秀でていた岩手は、その供給地として発展した。
 早速、1870(明治3)年に兵部省(後の陸軍・海軍省となる、明治新政府が設置した省の1つ)が盛岡藩(当時)から軍馬100頭を購入し、その2年後には水沢で育成されていた軍馬34頭を立て続けに購入している。

 こういった需要が高まる中で課題となったのが、この頃から県が管理していた「南部馬市」の民営化と産馬改良である。そこで大きな役割を担ったのが、岩手県の自由民権運動の主要メンバーであり、岩手県議会初代議長、衆議院議員を歴任した上田農夫(1848(嘉永元)~1895(明治28))である。
 岩手郡東中野村(現:盛岡市馬場町)出身の上田農夫(以降、農夫)は、1879(明治12)年の第1回県議会議員選挙で当選後間もなく産馬会社を設立し、南部馬市の民営化に取り組んだ。また1881(明治14)年に外山(現在の盛岡市玉山区藪川)・茨島(現在の盛岡市厨川)などにあった県営牧場の民間移管を実現させた。この他にも獣医学舎(現在の県立獣医学校)の創設など、馬産地岩手に数えきれない功績を残している。

 農夫は幼名を勇馬、後に馬太郎と“馬”のつく名を持っていたが、これを農夫と改めさせたのは、農夫が外山牧場の場長として呼び寄せた、同じ東中野村出身の一條牧夫(1858(安政5)~1938(昭和13)年)であった。一條牧夫は当時九平と名乗っていたが「お前は“農夫”と改めて農業をやれ。おれは“牧夫”と名を変えて畜産をやる」と語ったエピソードも残っている。

 その一條牧夫(以降、牧夫)は、岩手の産馬改良に尽力した人物である。1877(明治10)年に駒場農学校(現・東大農学部)第一回生として入学すると、この時既に農学校のアメリカ人教師エドウィン・ダン以上に馬の知識を持ち、当時既に始まっていた根岸の競馬で走る競走馬の治療に出向いていたほど馬の扱いにも長けていた。その力量を見込まれた牧夫は、下総御料牧場などを渡り歩いた後に外山牧場の場長に就任すると、南部馬に外国の種馬を交配することで県産馬の改良に乗り出した。
 その改良種は当初、見た目が貧弱に見えたことから価格が暴落してしまい、責め立てられた牧夫はその職を辞してしまう。しかし牧夫は、その改良種を引き連れ、当時南部馬を使って行われていたJR東北本線の工事現場に現れると、南部馬を遥かに凌ぐ馬力を見せつけ、自らの取り組みが正しかったことを証明したという。

 その後牧夫は、1896(明治29)年に世界一周の旅で南部馬と交雑させる品種の選定を行うと、1898(明治31)年に開設した岩手種馬厩に、牧夫が見定めたアングロノルマン種(ノルマンディーの馬にサラブレッドを掛け合わせた、フランス原産のばん馬)とハクニー種(スコットランドの軽ばん馬で、脚を高く上げる美しい歩き方が特徴)の種牡馬を輸入。そして1901(明治34)年に岩手県種畜場と名を変え、場長となった牧夫は、種牡馬の飼養管理や配合検査を自ら手掛け、岩手産馬の改良を推し進めたのである。

 この2人の功績により、岩手の馬産は軽ばん馬の供給地として、そして後に軍馬生産のメッカとして隆盛を極めることとなる。一方で、この2人の存在なくして、岩手の地で近代競馬が発展することはなかったと言えるほど、岩手の競馬に様々な形で影響を与えていった。






明治を駆け抜けた2人のホースマン、上田農夫(写真上)と一條牧夫(同下)

<次回は明年1月9日掲載予定です>
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