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第3回 戦前の盛岡競馬場-菜園から黄金、そして新黄金へ (1)

 横浜・根岸で日本初の洋式競馬が行われたのは1861(文久元)年のことである。それから遅れること10年後の1871(明治4)年、岩手でもその第一歩が記された。盛岡・菜園の地に1周1000mの楕円形馬場が作られたのである。これによりますます発展していった岩手の競馬は、農夫が1883(明治16)年に設立した岩手調馬会社により、1884(明治17)年9月に秋季競馬会をこの馬場で開催した。これが岩手における近代競馬のスタートであり、これは根岸、上野不忍池に続く3番目と位置づけられている。そして菜園での競馬は、それまでの競馬場と違い、馬産地に誕生した生産地競馬の象徴として発展していくことになる。

 この時、岩手調馬会社が策定した規則には、不正レースに関するものや同着となった場合の賞金配分の方法に加え、競馬の一般への認知・普及を目的として優秀な馬の馬名・馬主を新聞を用いて広告すると定めるなど、現代の競馬にも通じる農夫の先見の明を感じさせる内容が整備されていた。
 この菜園の競馬場は、1903(明治36)年に県産馬組合連合会の手によって盛岡・上田に移転され、この地に造られた1周1000mの円形馬場で11月3日に落成記念競馬が盛大に実施された。

 その余韻もさめやらない中、当時の騎兵監・閑院宮載仁親王(1865(慶応元)-1945(昭和20))が、総裁を務めていた日本赤十字社の岩手支部総会出席のために盛岡を訪れる折に新競馬場にお成りになられ、その来場記念競馬を親王ご臨席の元で11月22日に開催した。この来場記念競馬の盛り上がりを目の当たりにした親王はたいそうお悦びになられ、親王はこの競馬場を「黄金競馬場」と命名され、さらに企業奨励の目的で金百円を下賜されたのである。

 この「黄金競馬場」の名は現在の盛岡競馬場の愛称である「オーロパーク」(“オーロ”とはラテン語で“黄金”を意味する)にも受け継がれている訳だが、“黄金”の名が付けられた由来を語る上で、1876(明治9)年の6月から7月にかけて行われた、明治天皇の東北巡幸の旅が密接に関係しているので紹介しておきたい。
 岩手県としても未曾有の出来事であったこの旅で、盛岡八幡宮の馬場にて南部藩に伝わる軍馬術などを天覧に供した他、水沢では馬の育成を手がけていた佐野玉吉(初代)の育成馬・金華山号を見初められ、後に御料馬としてお買い上げになられている。また、現在ユネスコ世界遺産への登録を目指して活動している平泉寺院遺跡についても、巡幸中に中尊寺山に登られ、金色堂などを御覧の後、毛越山一帯の宝物と共に永く保護してほしいと伝えられている。

 その道中、明治天皇がお召し替えのために一息入れられた場所に湧水が出ており、これをご膳水として使われるなどされたという。この湧水は「黄金清水」と呼ばれていて、これが新競馬場の近くにあることを親王がご存知であったことから、それにちなんで名づけられたのである。
 その後黄金競馬場は、1912(明治45)年に1周1600mへと拡張され、東北随一の競馬場として多くの競馬関係者が集うようになっていった。

黄金競馬場

1903(明治36)年に開場した黄金競馬場。落成記念競馬は約3,000人が詰めかけ、更に馬場の周囲を入りきれないファンが囲んだ(出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合))

<続く>
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