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第10回 進駐軍慰安競馬と一條友吉の生涯(3)

・岩手競馬再興の時

 話を進駐軍慰安競馬に戻す。友吉は一方で、岩手県内での競馬開催時に開催委員として名を連ねたり、1931(昭和6)年に友吉自らが開いた「黄金育成牧場」で生産・育成を手がけた馬が岩手で活躍するなど、戦前の岩手の競馬に深く関わっていた。そして戦後、軍馬資源保護法が廃止され、軍馬育成という競馬の大義名分を失った中で競馬を再開するために、進駐軍の力が必要と感じていた。そこで進駐軍の慰安という名目を立てるとともに、その主催者となる盛岡振興競馬倶楽部を設立。自らその開催委員長として1946(昭和21)年10月5日・6日に進駐軍慰安競馬を開催することとなった。

 しかし日々の食べ物にも困るこの時代、開催に向けて多くの苦労も伴った。一條友吉の息子で、現・一條家当主の一條八平太氏は「競馬をやるために金がないからといって、家にあった馬の置き物を知人に譲って工面しましたし、やるとなったら出走表の印刷や配当の計算など、家族総出で手伝いましたからね」と振り返るように、いかに友吉が情熱を持って競馬の再開にむけて邁進していたかが伺える。

 そしてようやく準備が整った開催当日、場内にはトマトなど畑で取れたものを売る人や、芋煮をふるまう店も出るなど、戦後の娯楽がほとんどない時代に5千人以上の人が競馬場に詰め掛けた。そして馬券の売上も盛況であり、2日間で50万円以上を売り上げ、岩手競馬は再興への歩みを踏み出した。

・そして自治体競馬へ

 この直後に地方競馬法が制定され、翌1947(昭和22)年には県馬匹組合連合会主催で盛岡・水沢競馬を開催。さらに現在の競馬法が1948(昭和23)年に施行されると、主催者は県などの自治体へと移り、岩手競馬の歴史はつながれた。その道を切り開いたのが進駐軍慰安競馬であり、その委員長を務めた一條友吉だったのである。

 ただし、1949(昭和24)年に友吉がその生涯を閉じた時、その死を最も大きく伝えたのは、日本でも岩手でもなく、サラブレッドの魅力を友吉に教えたアメリカだったという。それはこの時、その生涯と功績を、日本の競馬界は理解できていなかったからかも知れない。

 それから長い月日が経った今も、実は日本の競馬界にこういった偉人たちを語り、伝えていくための環境や制度を本当の意味で手にしていない。その環境が与えられた時に、友吉にその資格があるかはまた広い議論が必要だろうが、友吉に限らず、その議論の機会すら与えられない競馬界の偉人たちをどれだけ捨てていけば、日本の競馬界はその大きな損失に気がつくのだろうか。

進駐軍競馬出馬表
1946(昭和21)年10月5日の進駐軍慰安競馬の出走表。この中には農耕馬や馬車馬もいれば、数十万単位で取引された高馬もいた(一條八平太氏提供)


<この記事は月2回更新です。次回は4月25日に掲載いたします。>
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