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第12回 自治体競馬の時代-競馬を求めた旅路

 現在、日本の競馬に参加している騎手や調教師は、事実上特定の主催者に“所属”している。それは所属がもたらす一種の既得権を背景に活動しているためで、それが及ばない主催者への参加は現在もなお、高いハードルが残っている。

 しかし、戦前や戦後直後の時代は個々の競馬場での開催回数が少なく、地方競馬の中ではいわば“来る者は拒まず”。そのため競馬を求めて各地を渡り歩く人は少なくなかった。岩手の場合、その姿勢に盛岡と水沢で大きな差があったとされている。

 水沢の場合、競馬に参加していた人は元々農家であり、農作業を放り出して県外に遠征することはほとんどできなかった。そんな彼らの唯一の遠征先は盛岡で、盛岡開催の時は盛岡に行く人と、その人に馬を預けて農地を守る人と役割分担していた。ただし盛岡への遠征は積極的で、彼らのための厩舎(出張馬房)を旧盛岡競馬場に造る必要に迫られるほど多くの遠征があった。

 これに対し盛岡には、競馬を生業としていた専業調教師がいた。中でも櫻田浩、小西善一郎、大和正四郎の3人は“御三家”とも呼ばれた盛岡の競馬における中心的存在だった。専業調教師の収入は競馬の賞金だけ。そのため東北地区を中心に、競馬を求めて旅に出る生活を送っていた。

 その中の1人で、全国の競馬場を渡り歩いたという小西善一郎氏に生前伺った話では、遠征はかなりの大所帯で、多い時で10頭以上の馬に、別当(現在でいう厩務員)を引き連れていた。また、当時は馬の輸送に貨車を使っていたが、一度、仙台の長町操車場(注)を経由しなければ目的地に行けなかったという。しかも長町で2~3日待たされることもあり、その間は馬を貨車から出せないなど、遠征にはかなりの苦労がつきまとった。

 しかし、1周1600m、幅員30mという大競馬場を有していた青森競馬場が1951(昭和26)年に廃止となるなど、戦災復興という目的達成や、財政競馬としての役割を担えなかったことから、渡り歩く先となる競馬場は姿を消していった。その逆に、岩手での開催が徐々に増えていったことから、岩手を安住の地として岩手の競馬を盛り上げる強い馬を生み出すことに専念したのである。

(注)操車場とは鉄道物流の拠点となる貨物専用駅のこと。長町操車場は総面積60万㎡を有し、東北随一の規模を誇った。

1954(昭和29)の盛岡競馬場のレース風景
1954(昭和29)の盛岡競馬場のレース風景/出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)


<この記事は月2回掲載です。次回は5月23日(土)に更新します。>

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