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第21回 繋駕から平地へ・・・転換点となった1969(昭和44)年

 自治体競馬の時代から岩手競馬を支え、盛り上げてきた繋駕だったが、高橋クニのデビューと相前後して、その存在感は次第に失われていく。これは元々、岩手の繋駕が他の主催者に向けた供給地として機能していたものが、中央が1968(昭和43)年12月の中京競馬を最後に繋駕を廃止するなど、供給先となるべく他の主催者がなくなり、その機能を失ったためである。

 一方の平地は、繋駕のように毎日走らせることはできないため、馬資源確保が開催維持の重要な課題となっていた。その改善のため1969(昭和44)年のシーズン開幕にあわせ、新たに水沢競馬場に80馬房分の厩舎が造られたことで、この年から平地競走中心の番組編成が可能となった。

 さらに繋駕では行なわれなかった取り組みも始まった。レース名に特定の名称をつけて行われるようになったのである。この年は水沢で行なわれた駒形賞(5月)と日高賞(6月)、盛岡で行なわれた岩鷲賞(7月)と不来方賞(8月)の4競走が創設。それぞれ1着賞金25万円と高額賞金(注)が用意され、岩手競馬の根幹競走として位置づけられた。

 騎手の世界にも平地を目指す騎手が生まれていた。その代表格が小西重征(旧姓・福田、現調教師)と櫻田浩三(現調教師)の両名で、小西重征氏は1963(昭和38)年のデビュー以来、それまでほとんど例がなかった平地専門の騎手として活躍。また櫻田浩三氏は1965(昭和40)年に繋駕専門でデビューしながら、たゆまぬ努力と過酷な減量を克服して平地の免許も取得した転身組であった。

 そして1969年はこの2人が大ブレイクした年でもあった。櫻田浩三氏はそれまで手の届かなかった高額賞金レースを数多く制し、大舞台に強い騎手として確固たる地位を築いた年となった。また小西重征氏は前年に初の平地リーディングを獲得した勢いそのままに岩手競馬史上初の年間100勝を達成、シーズン終了後には小西善一郎氏の娘・ヨシ子氏とゴールインしたことと併せ、騎手生活の絶頂期を迎えたのである。

 その一方で、繋駕部門の騎手表彰は1969年を最後に廃止された。この時、生産界に目を転ずれば、既に繋駕向けのトロッター種の生産を行う牧場はなく、平地の拡大とともに繋駕の終焉は間近に迫っていたのである。

(注)最高賞金レース別にあり、1969年は年度末の組合設立五周年記念競馬で県知事賞を賭けて行われたレースの35万円が最高で、その後数年は「農林大臣賞典」競走が最高賞金レースとして行なわれた。

小西重征騎手の口取り写真

繋駕全盛期に平地専門としてデビューした小西重征現調教師の騎手時代の貴重な口取り写真。1978(昭和53)年11月盛岡競馬でのもの。提供:高橋シヅ氏

騎手デビュー前の櫻田浩三氏

櫻田浩三氏は騎手デビュー前、東京オリンピック出場馬の世話をするために約4年間を東京で過ごした。この写真は馬術界で“神様”と呼ばれた小松崎新吉郎氏(左端)ら仕事仲間と撮影した貴重なもの(右から2番目に立っているのが櫻田浩三氏)で、この当時70キロ近く体重があったという。(提供:櫻田浩三氏)
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