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第8回 進駐軍慰安競馬と一條友吉の生涯(1)

 1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言の受諾により太平洋戦争が終結すると、日本はアメリカの占領下に置かれた。そして統制のためにやってきた進駐軍は、岩手でも到着したその日から盛岡市内を歩き回っていると、その中の数人が民家の野菜畑に入り込み、収穫直前の大根を盗もうとした。それを見つけた主人は、彼らが進駐軍であることが分かると彼らを家に招き入れたという。

 この人は岩手の産馬改良に尽力した一條牧夫の息子である一條友吉だった。英語が堪能だった一條友吉(以降、友吉)は、進駐軍にとって貴重な英語が通じる地元住民だったこともあり、それから毎日代わる代わる友吉の家にやって来るようになった。もちろん友吉も進駐軍相手なら色々な相談が出来ると考えており、その中に「(岩手)競馬を復活させたい」という想いも含まれていた。

・「プレッセリアのトモ」と呼ばれて

 その前に友吉の歩みを紹介する必要がある。一條牧夫の長男として1884(明治17)年に生まれた一條友吉は、盛岡中学を1901(明治34)年に卒業すると、父が歩んだ道を追うように単身アメリカに渡った。そしてニューヨーク州のロングアイランド競馬場の厩務員時代には、当時連戦連勝を続けながら再起不能の重傷を負った「プレッセリア」を任せられると、友吉の手でその故障を直し、再び連勝街道を歩んだことで、アメリカのホースマンから“プレッセリアのトモ”と呼ばれ、尊敬を受けたのである。

 その後イギリスに渡り、後に旧盛岡競馬場の設計に携わった際にモチーフとしたエプソム競馬場に訪れるなど、イギリス競馬の現状も見て回った。そして1910(明治43)年に帰国した時には、友吉はサラブレッドの世界で生きていくことを決意していた。

一條友吉
岩手だけでなく日本の競馬界に多大な貢献をもたらした一條友吉


<この記事は月2回更新です。次回は3月28日に掲載いたします。>

| 前史 | 19:05 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第7回 もう1つの岩手競馬・花巻

 地方競馬という概念・言葉が生まれたのは1927(昭和2)年に地方競馬規則が公布され、開催に当たり地方長官の許可が必要となった(政府公認の競馬を除く)ことにある。NAR発刊「地方競馬史」によると、同規則や戦後の競馬法などの下で地方競馬が行われた競馬場は、沖縄県を除く46都道府県・144競馬場(注)に及ぶ。この中には岩手県から盛岡・水沢の他にもう1ヶ所、花巻が含まれている。

 花巻競馬の起こりは、1925(大正14)年に稗貫郡(当時)の有志が競馬場設置を目指して「南部競馬倶楽部」を設立したことにある。同倶楽部は、集めた寄付金(資本金)2万5千円で花巻町(現花巻市)下根子付近の土地2万坪を買収し、1周1600m、幅員27mの競馬場を建設。この競馬場で翌1926(大正15)年4月25日に稗貫郡産馬畜産組合の主催により、最初の競馬が開催された。

 しかしこの競馬は本当の意味で花巻競馬のスタートではなかった。というのも、開催までに馬券発売の認可が下りず、止む無く馬券発売のない花競馬として行ったためである。そのため、馬券発売が認められて最初の開催となった1926年10月23日が花巻競馬の開設日とされている。

 その後1932(昭和7)年まで春秋の年2回開催を行った花巻競馬だが、参加頭数不足と売上低迷に悩まされた。そのため、1933年は春季競馬のみ、翌1934年は秋季競馬のみの開催となり、さらにその後2年間は開催を実施せず、その将来は風前の灯となっていた。

 この状態を危惧した花巻町議会は1937(昭和12)年、花巻競馬に補助金を出すことを決議した。これを受け6月に春季花巻競馬の開催を決め、また盛岡・水沢・花巻が3週連続開催となるように日程調整され、3年ぶりとなる花巻競馬を盛り上げる環境を整えていった。

 そして6月19日より始まった3年ぶりの花巻競馬は、競馬の復活を待ちわびたファンが多数詰めかけ、連日好天に恵まれたこともあって大いに盛り上がった。しかし終わってみれば、花巻競馬の売上は以下のように盛岡・水沢と比べ芳しくなかった。

1937年春季 盛岡競馬総売上高(6月4日から3日間) 27,292円
〃     水沢競馬総売上高(6月12日から3日間) 23,975円
〃     花巻競馬総売上高(6月19日から3日間) 16,367円
(いずれも岩手日報記事より)

 花巻競馬は結果的にこれが最後の開催となり、自然消滅に近い形でその歴史は終止符が打たれた。それでも144競馬場の中には数年間、極端なものは1開催のみという競馬場もある中では、花巻競馬が存在した12年の歴史を短命と片付けてはいけないのかも知れない。

(注)競馬場数は競馬場名を基準にカウント。また、この中には現在、中央競馬を実施している競馬場も含む。

花牧競馬場跡
花巻競馬場跡地。なお、花巻競馬に関する資料は非常に乏しく、競馬場そのものの写真は花巻競馬開場初日の様子を伝えた、1926(大正15)年4月26日付岩手日報以外、確認できていない(出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」・岩手県競馬組合)



| 前史 | 12:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第6回 戦前の水沢競馬場-東(あずま)競馬場と呼ばれて (2)

 水沢競馬は奉納競馬として行われていた当時に倣い、春秋の2回、駒形神社の祝典日に合わせて開催を行っていた。特に5月3日を中心に行われる駒形神社祭に併せて行われる水沢競馬は活気にあふれ、その姿からいかに駒形神社と密接な関係にあったのかを窺い知ることが出来る。

 しかし1934(昭和9)年、初めて駒形神社の祝典からずらし、東競馬場開設25周年記念と銘打ち、6月30日から3日間の開催を実施した。この競馬は賞金額が増額され、時の斎藤実総理からも副賞の寄贈を受けるなど、70頭あまりの駿馬たちが熱戦を繰り広げた結果、この開催は過去の水沢競馬にない空前の成功を収めた。
 これが駒形神社から一人立ちできることを示す節目の開催となり、また水沢競馬場を支えてきた後援会も翌1935(昭和10)年に「水沢競馬倶楽部」と改められ、より強固な支援体制が整えられていった。

・戦争の波にのまれて

 この時、既に日本は戦争への道を突き進んでいた。戦局が次第に激化の様相を呈した中で、政府は1938(昭和13)年に軍馬資源保護法を制定し、地方競馬の根拠法として1927(昭和2)年に公布した地方競馬規則を廃止した。それにより全国の地方競馬は法的根拠を失い、岩手でも1939(昭和14)年をもって盛岡・水沢の両競馬は中止となり、軍馬資源保護法による競馬も岩手では水沢で1940(昭和15)年に行われたのみ。日本競馬会(帝国競馬協会が、参加していた11の競馬倶楽部を統合して1936(昭和10)年設立)も1943(昭和18)年に開催休止となり、(一部の競馬場で馬券を発売しない能力検定競走を実施していたが)競馬場にこだまするファンの歓声は戦争終結まで戻ることはなかった。

水沢競馬場
1912(大正元)年撮影の水沢競馬場。右手の森は駒形神社である
(出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」・岩手県競馬組合)




<この記事は月2回更新です。次回は2月28日に掲載いたします。>

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第5回 戦前の水沢競馬場-東(あずま)競馬場と呼ばれて (1)

 盛岡の競馬が生産地競馬として発展していったが、水沢は元々、軍馬の育成地として発展していた。それについて、明治天皇の東北巡幸の際に水沢の地で見初められ、御料馬として買い上げた金華山号の育成を手がけていた初代佐野玉吉の末裔で、現・佐野家当主の佐野榮治氏は「馬というのは軍備に関わるから話にカドが立つ。そこで伊達藩のお偉い方が秘密裏に馬の育成を手がけるようになり、そのエキスパートが水沢に集まってきた」と語るように、水沢が属する旧伊達藩が、優秀な馬産地である隣国の旧南部藩に対抗するため、生産を捨てて安い馬を購入し、その育成に力を入れていたと指摘している。

 水沢での競馬は駒形神社の奉納競馬が起源であり、それが発展して現在のようになっていった。その始まりは、一説には平安時代とも言われ、200~500m程の直線馬場(鉄砲馬場とも呼ぶ)を並んで走る“くらべ馬”と呼ばれる神事であった。これを1901(明治34)年、胆沢郡産馬組合が中心となり、現在の水沢公園内に1周500mの円形馬場を新設し、同組合主催による競馬を開催。これが水沢における近代競馬のスタートと位置づけられている。その後1908(明治41)年に東宮殿下(後の大正天皇)が水沢に行啓されたのを記念して、翌1909(明治42)年に東競馬場と命名されたのを機に1周800mへと拡張され、地元の人達に親しまれる存在となっていった。

 しかし時を同じく、1908年に公布された「勝馬投票券禁止令」により“馬券”という商品を失った競馬場は、徐々に活気を失っていった。そのような中、水沢競馬は後援会を組織して会員が開催に向けた資金集めに奔走したり、投票券付きの観覧席を発売して、その投票券で勝ち馬を予想し、的中者に物品交換券を交付するなど、知恵を出しながら競馬を続けていた。

 その後、安田伊佐衛門(JRAの「安田記念」にもその名を冠す、後の初代JRA理事長)をはじめとした全国の競馬関係者の馬券復活運動が実を結び、1923(大正12)年に馬券発売が復活した。すると水沢競馬は、1周1600mの馬場を持つことが発売の条件となったことから、1マイル馬場への拡張を目指した。そのやりとりを旧水沢市が編纂した「水沢市史 4」に詳しく書かれているので引用する。
 「勝馬投票を行うには1マイル馬場が必要であった。よって競馬会(後援会か?)は協議の上、水沢町(当時)に対して、現在の馬場を無条件で寄付し、会が負っている負債六千余円は町で肩代わりして貰う。又、馬場は1マイル馬場に拡張して欲しい旨申し出、町はこれを議会に諮って可決した。依って、半マイル馬場の南側にこれを拡張することとし、敷地は五十一名の所有地であったが、競馬存続期間中永久に坪十銭で貸借、この貸借料計八百円も町費支弁と決定して、直ちに整地、附属建物の建設に着手し、1924(大正13)年春に完工した」(一部要約、修正)
 これにより水沢も馬券発売の許可が下り、これまで以上に活気に満ちた場へと姿を変えた。

東競馬場

1910(明治43)年5月に開催された東競馬場落成記念競馬開催時に撮影された記念写真。この中に佐野榮治氏の祖父・2代目佐野玉吉氏も含まれているとのこと(出所:「岩手の馬育成-私たちの歩いた道-」・(社)競走馬育成協会)

<この記事は月2回更新です。次回は2月14日に掲載いたします。>

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第4回 戦前の盛岡競馬場-菜園から黄金、そして新黄金へ (2)

 時代は大正を超え、昭和を迎えると、新黄金競馬場構想が持ち上がった。これは1つに黄金競馬場周辺の耕地整理を進めるためであったが、平行して盛岡競馬の政府公認を目指す運動があり、そのためには走路を帝国競馬協会(政府公認の東京・横浜など11の競馬倶楽部の統括団体として1921(大正10)年設立。現在のJRAの起源でもある)が定める規模とする必要もあった。

 この構想は黄金競馬場の走路拡幅にて対応できるとして、1933(昭和8)年に春季盛岡競馬(5月下旬ごろの開催が多かったが、時期については毎年異なる)を延期して、用地買収をはじめとした準備を進めていた。しかし、肝心な用地買収が不調に終わり、買収を断念。これを受け県産馬組合連合会は、5月に春季盛岡競馬の中止と、黄金競馬場から更に北に行った、高松池近くの毛無森への移転を発表した。
 それから新黄金競馬場の工事は急ピッチで進められ、秋には帝国競馬協会の基準をクリアする1周1600m、幅員16mの新競馬場も完成した。そして落成記念競馬となる秋季盛岡競馬を11月3日から行うと発表し、全国から競馬関係者が招待されるなど、開催に向けた準備も着々と進んでいた。

 ところが開催に向けて出走予定馬の調教が始まると、調教に乗っていた騎手から走路の路盤が緩く、危険なので開催を延期してほしいとの要望が出た。急ピッチの工事ゆえ、路盤が固まっていなかったためで、協議により初日は開場式のみを実施し、レースは翌週の10日からに延期されることになった。
 そして1年ぶりの盛岡競馬となった11月10日は、朝早くから多くのファンが詰めかけた。新競馬場で最初に行われた繋駕(けいが)速歩競走は、その後の岩手競馬の繁栄を予感させるかのようにコーフク号が勝利を収めると、その後も熱戦のレースが続き、3日間の開催中、競馬場は興奮の波が冷めぬままに大成功のうちに開催を終了させることができた。

 ところで、この新黄金競馬場(以降、旧盛岡競馬場)は、黄金競馬場時代の右回りから左回りへと変更されている。これは、旧盛岡競馬場の設計に携わった一條牧夫の息子である一條友吉(1884(明治17)~1949(昭和24))のサラブレッドとともに歩んだ生涯を振り返らなければならないが、それについては別の機会にご紹介することにする。

黄金競馬場2
移転間もない1935(昭和10)年頃の旧盛岡競馬場
(出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」・岩手県競馬組合)

<この記事は月2回更新です。次回は1月31日に掲載いたします。>

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