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第22回 1971(昭和46)年6月20日「繋駕ラストラン」

 「いずれこの時が来るとは思っていたけど、終わってみればやっぱり寂しかったよ」と振り返ったのは阿部時男(元調教師)。「(それまでの)岩手の競馬は水沢と速歩競走が支えていたと思うんだ。そう考えれば寂しいよね」と語ったのは村上初男(元調教師)。組合設立以前から繋駕のトップジョッキーとして互いにライバルとして認め合い切磋琢磨した2人が、繋駕の終焉に対して送った言葉である。

 繋駕の編成が少なくなっていったこの当時、阿部時男氏も村上初男氏も既に調教師として厩舎を開業していた。特に1965(昭和40)年に厩舎を開業した阿部時男氏は、自らの厩舎には繋駕は置かなかったという。しかしレースが少なくなるにつれ、繋駕に乗れる騎手も少なくなったため、阿部時男氏や村上初男氏をはじめ既に調教師となっていた人も(当時はまだ騎手兼調教師が認められていたとはいえ)繋駕だけは騎手として駆り出されていた。

 そして1971(昭和46)年に入ると、岩手競馬は平地競走一色になった。繋駕が編成されない日が多くなり、編成される時も朝の第1レースのみ。既に風前の灯火となっていた中で迎えたのが6月20日の盛岡競馬第3レースだった。普段の2倍以上の賞金となる1着賞金10万円を賭け、最後となる繋駕レースが行なわれた。

 9頭立てで行われたこのレース、9人の騎手は万感の思いと、最後の勝利を目指して激しくムチを振るった。レースは志村文雄(元調教師)が手綱を取るスペースマンが懸命に逃げるところ、最後に高橋クニ氏が操るハイスポートが襲いかかってきた。彼女もまた女性騎手のパイオニアとして、そして最後となる舞台に勝利を信じて追いかけてきたのだ。しかしその追撃をスペースマンは最後まで凌ぎ切り、最後のゴールに飛び込んだのである。

 こうして岩手から、そして日本の競馬界から繋駕は姿を消した。しかし当時の記憶を残すかのように、今も組合の倉庫には当時使用されていた繋駕が残されているという。

志村文雄氏
最後の繋駕速歩競走で優勝した志村文雄元調教師(2004年撮影)。


最後の繋駕速歩競走の出走表・成績表
最後の繋駕速歩競走となった1971(昭和46)年6月20日・盛岡競馬第3レースの出走表及び成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)


リーディング一覧
組合設立の1964(昭和39)年から繋駕速歩最後の年である1971(昭和46)年までのリーディングジョッキー一覧


| 昭和40年代 | 10:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第21回 繋駕から平地へ・・・転換点となった1969(昭和44)年

 自治体競馬の時代から岩手競馬を支え、盛り上げてきた繋駕だったが、高橋クニのデビューと相前後して、その存在感は次第に失われていく。これは元々、岩手の繋駕が他の主催者に向けた供給地として機能していたものが、中央が1968(昭和43)年12月の中京競馬を最後に繋駕を廃止するなど、供給先となるべく他の主催者がなくなり、その機能を失ったためである。

 一方の平地は、繋駕のように毎日走らせることはできないため、馬資源確保が開催維持の重要な課題となっていた。その改善のため1969(昭和44)年のシーズン開幕にあわせ、新たに水沢競馬場に80馬房分の厩舎が造られたことで、この年から平地競走中心の番組編成が可能となった。

 さらに繋駕では行なわれなかった取り組みも始まった。レース名に特定の名称をつけて行われるようになったのである。この年は水沢で行なわれた駒形賞(5月)と日高賞(6月)、盛岡で行なわれた岩鷲賞(7月)と不来方賞(8月)の4競走が創設。それぞれ1着賞金25万円と高額賞金(注)が用意され、岩手競馬の根幹競走として位置づけられた。

 騎手の世界にも平地を目指す騎手が生まれていた。その代表格が小西重征(旧姓・福田、現調教師)と櫻田浩三(現調教師)の両名で、小西重征氏は1963(昭和38)年のデビュー以来、それまでほとんど例がなかった平地専門の騎手として活躍。また櫻田浩三氏は1965(昭和40)年に繋駕専門でデビューしながら、たゆまぬ努力と過酷な減量を克服して平地の免許も取得した転身組であった。

 そして1969年はこの2人が大ブレイクした年でもあった。櫻田浩三氏はそれまで手の届かなかった高額賞金レースを数多く制し、大舞台に強い騎手として確固たる地位を築いた年となった。また小西重征氏は前年に初の平地リーディングを獲得した勢いそのままに岩手競馬史上初の年間100勝を達成、シーズン終了後には小西善一郎氏の娘・ヨシ子氏とゴールインしたことと併せ、騎手生活の絶頂期を迎えたのである。

 その一方で、繋駕部門の騎手表彰は1969年を最後に廃止された。この時、生産界に目を転ずれば、既に繋駕向けのトロッター種の生産を行う牧場はなく、平地の拡大とともに繋駕の終焉は間近に迫っていたのである。

(注)最高賞金レース別にあり、1969年は年度末の組合設立五周年記念競馬で県知事賞を賭けて行われたレースの35万円が最高で、その後数年は「農林大臣賞典」競走が最高賞金レースとして行なわれた。

小西重征騎手の口取り写真

繋駕全盛期に平地専門としてデビューした小西重征現調教師の騎手時代の貴重な口取り写真。1978(昭和53)年11月盛岡競馬でのもの。提供:高橋シヅ氏

騎手デビュー前の櫻田浩三氏

櫻田浩三氏は騎手デビュー前、東京オリンピック出場馬の世話をするために約4年間を東京で過ごした。この写真は馬術界で“神様”と呼ばれた小松崎新吉郎氏(左端)ら仕事仲間と撮影した貴重なもの(右から2番目に立っているのが櫻田浩三氏)で、この当時70キロ近く体重があったという。(提供:櫻田浩三氏)

| 昭和40年代 | 12:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第20回 女性騎手第1号・高橋クニ誕生(2)

 クニ氏の言葉に武氏は、反対する気持ちはなかったというが、女性騎手がいるという話はもちろん、騎手になれるという話も聞いたことがなかった。そこで当時、NARから岩手に派遣されていた職員に尋ねたところ「ちゃんとした技術があって、試験に合格すれば女性でも免許を出す」という答えだった。それを伝え聞いたクニ氏は本気になった。武氏も「努力してダメだったら仕方ない」と、持っていた競馬の本を学科試験の参考書代わりに渡したり、技術指導に乗り出すなど、協力を惜しまなかった。

 しかし武氏の話によると、繋駕の騎手といえども騎手試験は乗馬(今でいう平地競走)で行われることから、その技能の会得には苦心したという。中でも“飛び乗り”は体力がある若い女性でもなかなか難しく、普段から馬に接していたクニ氏にとっても大きな壁であったが、情熱とたゆまぬ努力でそれを克服した。

 そしてクニ氏は1966年に騎手試験を合格し、その年の春の水沢競馬で繋駕専門の騎手としてデビューした。この時実に38歳。夫の武氏も現役として活躍していた夫婦ジョッキーであったことも含め、国内女性騎手第1号は異色ずくめであった。そしてデビュー間もない3戦目には、自らの手で復活への道しるべをつけ、騎手への夢を与えてくれたホマレの手綱を取り、初勝利を挙げたのである。

 それをきっかけにクニ氏は“日本唯一の女性ジョッキー”としてメディアでも紹介されるようになり、岩手競馬の注目度を高める役割を担った。もちろん、クニ氏が絶えず努力を積み重ね、繋駕で活躍する多くのトップジョッキーたちと白熱した戦いを演じたことで、ファンからも信頼を得ていた騎手であったことを忘れてはならない。

高橋クニの騎乗姿

レース中の高橋クニ氏の雄姿 出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

新聞記事

高橋クニ氏がテレビで紹介されることを報じた胆江日日新聞の記事(1966年7月12日付「胆江日日新聞」より)

追記・高橋クニを女性騎手第1号と定義する理由

 高橋クニはJRA(前身含む)またはNARが発行した騎手免許により騎乗した最初の女性であることから第1号と定義している。ただし免許を得たという意味では、1936(昭和11)年、京都競馬倶楽部の騎手試験に合格した岩手出身の斉藤澄子がいる。しかしデビュー直前に帝国競馬協会(当時)は、風紀を乱すとして騎乗を取りやめるよう通達を出し、また翌1937(昭和12)年設立の日本競馬会は会則で女性が騎手となることを禁じたため、実際にレースで騎乗することはできなかった。

| 昭和40年代 | 12:09 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第19回 女性騎手第1号・高橋クニ誕生(1)

 日本の競馬史の中で、NARまたはJRAからライセンスの発行を受け、レースに騎乗した女性騎手は、引退した騎手を含めても数十人程度しかいない。その第1号は繋駕専門の騎手として1966(昭和41)年に岩手競馬でデビューした高橋クニ(以降、クニ氏)がその人である。

 クニ氏の夫は繋駕専門の騎手として活躍していた高橋武(以降、武氏)で、戦後、競馬をやりたいがためにセリ市で繁殖牝馬を買い求め、その仔を調教して参加した変り種だった(注)。中でも大活躍をしたのが“ホマレ”で、岩手での走りを認められて高額なトレードマネーで新潟に移籍。さらにその後に移籍した中央でも優秀な成績を残した。

 ところがホマレが中央にいた時代、輸送時のアクシデントでレースへの復帰をあきらめるほどの大きなケガを負った。その話を聞いた武氏は「うちで生まれて、あれだけ走った馬だから(最後は)うちで面倒を見よう」ということでホマレがいた京都の厩舎まで駆けつけ、水沢に連れて帰って来た。

 帰って来ると、武氏は普段から厩舎を手伝っていたクニ氏にケガの治療と日常の世話を頼んだ。武氏にケガをした馬の世話をする余裕がなかったためだが、この時クニ氏は、ケガが治ればまた走れるようになると思っていた。そしてクニ氏の献身的な介抱によってホマレのケガは癒え、再び走れるまでに回復した。するとクニ氏は「ホマレに乗りたい。いっぺんでいいからレースに乗りたい」と武氏に言って来たのだ。ホマレに対して注いできた愛情が、既にこの時30代半ばを過ぎていたクニ氏に、女性騎手という未知なる挑戦への熱き想いに形をかえて湧き上がったのである。

(注)組合が設立した頃までは騎手兼調教師兼馬主として参加する人が普通だったが、高橋武氏のように生産者まで兼ねていた人はほとんどいなかった。現在の日本の競馬は職務の専業化が厳格に定められており、調教師と騎手を兼ねること、厩舎関係者が馬主や生産者となることは禁じられている。

高橋クニ
高橋クニ

高橋武
高橋武

女性騎手第1号の高橋クニ氏/出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)と、その夫の高橋武氏(故人・2001年撮影/「テシオ」2001年10月号より)

| 昭和40年代 | 23:19 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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