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第34回 水沢競馬場に東北交流がやってきた

  1975年は岩手競馬にとってもう1つ意義深い年となっている。それは1973年から東北3県 (岩手・上山・新潟) 持ち回りで始まった東北地区交流競走が初めて水沢競馬場にやって来たからである。しかしこの競走、もしかしたら岩手抜きでスタートしていた可能性もあったという。

 このレースは元々、東北地区の馬主会から“東北3県持ち回りで行うアラブの交流競走”の実施を各主催者に提言・要求したことをきっかけに創設されたものだが、上山・新潟の主催者からは、売り上げ(注)はもちろん、賞金水準も低い岩手競馬がそのための賞金負担に耐えられるか疑念を持たれていたという。そのためか岩手にはなかなか話が回ってこず、当時の事情に詳しい元組合職員の佐藤栄亀氏によると、新潟県競馬の開催執務委員長から「岩手さんは本当に出来るんですか」と聞いてきた電話で初めて知ったと振り返っている。しかし“ファンをつかむ大きなチャンスになる”と考えた佐藤氏は「やるよ」と即答したことから、東北交流は3県持ち回りでスタートを切ることができた。

 こうしてスタートを切った東北交流「東北アラブチャンピオン」は、始まってみると第1回(上山)でプレシャスゴールドが2着に入り、第2回(新潟)は遠征した3頭が4~6着と、岩手勢も健闘を見せていた。そのため地元開催となる第3回は岩手勢の初制覇に期待が膨らんだ中で迎えた11月16日。この日の水沢競馬場はこの年から創設され、同日に開催されることになった「東北アラブ(旧)3歳チャンピオン」と併せ、新潟・上山の強豪を迎えたビッグイベントを一目見ようと多くの競馬ファンが詰め掛け、当時史上最高の10,872人の大観衆で溢れかえった。

 レースは当時の管理者・千田進岩手県知事が見つめる中で争われた。先に行われた東北アラブ3歳チャンピオンは遠征勢に3着までを独占される完敗劇に終わった。しかし東北アラブチャンピオンは村上実氏(現調教師)の手綱捌きに導かれたイチヤマトップが、遠征勢に加え、2ヶ月前の紫桐杯でゴール寸前で差され、栄冠の夢を砕いたブラックリョウにも雪辱を果たす勝利を手にし、ファンの歓声がスタンドに響き渡った。

 この東北3県交流競走はその後、新潟県競馬が1975年に創設した「東北招待競走」(後の東北サラブレッド大賞典の前身)をきっかけにサラブレッド系の競走でも東北交流競走がスタートするなど、交流競走が充実。東北地区全体のレベルアップに貢献していった。

(注)東北3県の1日平均売上高 (1972(昭和47)年基準)
  岩手県 約 8,029万円(開催日数 90日)
  上  山 約 9,802万円(開催日数 66日)
  新潟県 約 10,454万円(開催日数 108日)

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「東北アラブチャンピオン」「東北アラブ(旧)3歳チャンピオン」当日の水沢競馬場を埋め尽くした大観衆(出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」岩手県競馬組合)


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イチヤマトップが優勝した第3回東北アラブチャンピオンの成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)




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| 昭和50年代 | 18:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第33回 新時代の岩手競馬へ・・・番組体系が整備された1975(昭和50)年

 1975(昭和50)年に岩手競馬は番組体系の整備に取り組んだ。それまでの岩手競馬の主要競走の多くにつけられていた“農林大臣賞典”や“地方競馬全国協会会長賞典”といった堅い名前がすべて姿を消し、すべての重賞・特別競走に固有の名称が付けられた。これによりレースのクオリティがファンにわかりやすくなり、またファンに親しみやすくなったことで、更なる発展への第一歩となった。

 その中から重賞レースをいくつか紹介すると、「シアンモア記念」と「ビューチフル・ドリーマーC」は小岩井農場が輸入・繁養され、戦前戦後はもちろん現代の競馬にも息づく一大血脈を築いた大種牡馬シアンモアと名繁殖牝馬ビューチフル・ドリーマーの名を冠して創設した。またファン投票によるサラブレッドとアラブそれぞれのグランプリレースとして、県の花である広葉樹の“桐”の名を冠した「桐花賞」が、また下駄やたんすなどの材料として使われる時に木が淡い紫色をおびていることから“南部紫桐”とも呼ばれていたことにちなんだ「紫桐杯」が創設された。

 そして第1回の桐花賞と紫桐杯は、それぞれ白熱した戦いとなった。第1回の桐花賞は旧盛岡の直線一杯に人馬のプライドを激しくぶつけ合い、最後までどの馬が勝つかわからない叩き合いとなった。そして前年の第2回みちのく大賞典を制したスリービート、2ヶ月前に行われたシアンモア記念の初代チャンピオンとなったユウズルといった実力馬たちを抑え、鞍上の葛西勝幸氏(現調教師)ともどもビッグタイトルに縁のなかった人気薄のシンダイヤが激戦を制した波乱の結末となった。

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第1回桐花賞のゴールシーン。大接戦を制して先頭でゴールするシンダイヤ(7番)出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)


 また第1回の紫桐杯を制したのは、最後方からの追い込みという破天荒な戦法を取ることから“黒い弾丸”と呼ばれたブラックリョウが輝いている。主戦騎手の小西重征氏(現調教師)は「とにかく気が悪い馬で、浦和時代に逸走で2度出走停止になって、もう1回やったらアウトというところで岩手に来たけれど、岩手でも“出走停止90日”なんて制裁をもらったな。旧盛岡だったけれど、4コーナーで内ラチ沿いが開いたのに気づいてそこに突っ込んだらすごい脚を使って一気に先頭に立った途端、外ラチに吹っ飛んでいって、他の騎手から“手綱を引く暇もなく目の前を横切って行ったよ”って言われたこともあったね」と振り返るほど、気性の激しさも一級品だった。

 しかし極端な戦法を選んだことで高い能力も引き出され、1972(昭和47)年の転入以来、多くのタイトルを得ていた。この当時は頃には既に全盛期を過ぎていた感はあったものの、後方からのレースで並み居る先行馬をゴボウ抜きし、最後は粘るイチヤマトップも捉えゴールイン。個性派としてファンの多かったブラックリョウにとって最もふさわしいタイトルを獲得した。さらにブラックリョウは、翌年も勝てないレースが続いた中で駒を進めた紫桐杯で連覇を果たし、この時代を彩るアラブの名馬としての最後の輝きを放ったのである。

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ブラックリョウが優勝した第1回紫桐杯の成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)




| 昭和50年代 | 11:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第32回 実力ナンバー1決定戦! 1973(昭和48)年・みちのく大賞典スタート

 昭和40年代の岩手競馬を総論的に評すれば、右肩上がりに発展した10年といえる。入場者・売上とも急上昇し、それによって開催日数の増加や賞金額のアップという好循環が生まれた。そして組合設立当初は1着賞金10万円のレースすらなかったところから、1972(昭和47)年10月の農林大臣賞典で岩手競馬初の100万円のレースを実施できるまでになった。

 ただしこの好況は岩手競馬に限った話ではなかったので、岩手競馬は全国の最下位を争うような地位から抜け出すことは出来なかった。競走馬のレベルも低く、この時代の屋台骨を支えたのは他地区からの移籍馬で、それもかの地で名を上げた馬はほとんどいなかった。それでも賞金増や県の経済発展により、馬主が良質な(高い)馬を手に入れられるようになったことで、年を追うごとにレベルアップが進んでいった。

 それを象徴する馬として、中央から移籍して1974(昭和49)年を中心に活躍したウイスカーを紹介したい。主戦を務めた小西重征氏が「まるで外車に乗ったような感じ」と振り返った乗り味の良さと豊かなスピードで、1974年10月(農林大臣賞典)に旧盛岡2000mで2分5秒7、11月に水沢1600mで1分39秒7と相次いでコースレコードを更新し、このタイムは旧盛岡2000mが13年、水沢1600mが実に20年にわたり破られなかった。

 ただしこの時代、レースのクオリティをレース名で示すという、ファンにわかりやすい競馬の指針がなかった。確かに1969(昭和44)年に不来方賞などがスタートしていたが、これらは岩手競馬の最高峰のレースではなかった。また最高賞金レースは農林大臣賞典だったが、シーズン途中で賞金が増額される年もあり、賞金額とレースの価値が比例していたか疑問もあった。

 そこで1973(昭和48)年に“重賞競走”を新たに制定し、その指針となるナンバー1決定戦として「みちのく大賞典」を創設した。第1回みちのく大賞典は7月22日に旧盛岡競馬場の2000mで当時の岩手競馬史上最高賞金額となる1着賞金150万円をかけて争われ、千葉次男氏(故人)が騎乗したヤマトハナが初代チャンピオンに輝いた。この時のヤマトハナは2週間前の前哨戦で2着と敗れたこともあってファンの支持は高くなかった(単勝16.3倍)が、その前哨戦を制し本番でも支持を集めたフジナショナルに雪辱を果たす、殊勲の勝利であった。

 同じ1973年にはそれまでなかった(旧)3歳馬の競走として「南部駒賞」を創設した他、東北3県(岩手・上山・新潟)持ち回りの東北地区交流競走もスタートした。基幹競走が出来た岩手競馬は、同じ年に大井競馬から中央に移籍してクラシックを戦った元祖アイドル・ハイセイコーが沸き起こした全国的な競馬ブームにも後押しされ、この年に年間売上100億円を突破した。そして2年後の1975(昭和50)年に、現在の競走体系の礎となる番組改革を実施し、岩手競馬は近代化への歩みを始めたのである。

1964(昭和39)年(組合設立年)~1974(昭和49)年までの入場人員・売上高推移

1964(昭和39)年(組合設立年)~1974(昭和49)年までの入場人員・売上高推移
出所:「いわての競馬史」(岩手県競馬組合)※一部年度再掲

千葉次男氏
第1回みちのく大賞典をヤマトハナで制した千葉次男氏(1948(昭和23)-2002(平成14))。
1970(昭和45)年に中央で騎手デビューした後に岩手に転じた異色の経歴を持ち、みちのく大賞典2勝・桐花賞3勝など大舞台に強いトップジョッキーとして高い評価を得た。

| 昭和40年代 | 09:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第31回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(5)

 優子氏はさらなる飛躍を目指し、1973(昭和48)年のシーズン終了後のオフを利用して、武者修行として紀三井寺競馬場(和歌山県・1988(昭和63)年3月廃止)で騎乗すると、約2ヶ月の期間中に5勝を挙げた。そして新年度の岩手競馬で成長した姿を披露しようと、活躍を誓って6年目のシーズンがスタートした。

 しかしシーズン開幕から1ヶ月ほど経った1974(昭和49)年5月17日。優子氏は急性心不全で突然この世を去ることになる。享年23歳。実働5年1ヶ月にわたる生涯成績1776戦209勝(岩手県外を含む)は、女性でなくとも若手騎手として将来を嘱望されるには十分な実績といえよう。そして現在もなお「優秀な男性騎手とも互角の技量を持つ、日本の競馬界における史上最高の女性騎手だろう」と現役時代を知る人から評される騎手を失ったことは、岩手競馬のみならず日本の競馬界全体の大きな損失であった。

・引き継がれた魂

 この時、水沢競馬場の厩舎には、高橋優子の存在によって女性でも騎手になれることを知り、その夢を実現させるために彼女を慕って岩手にやって来た1人の女性が腕を磨いていた。その女性・・・吉田弥生は、高橋優子の死から2年後の1976(昭和51)年に日本競馬史上3人目の女性騎手として岩手からデビューし、彼女の魂は引き継がれた。この時、後を追う者が岩手にいなかったら、もしかしたら日本における女性騎手の歴史はこの段階で終焉を迎えていたかも知れない。

 その後岩手以外でも女性騎手は誕生し、多くの女性騎手が競馬界に足跡を残している。その歴史の第一歩を岩手競馬が記したのは、古くから馬とともに生きてきた岩手県の歴史風土が、騎手を目指す勇気を持つ女性を生み、それを皆が受け入れる土壌を築いていたためではなかっただろうか。

 さらに組合が女性騎手の存在を、また女性でも騎手として活躍できることを広める努力を続けたことも忘れてはならない。その取り組みについてはまた別の機会に詳しく紹介する機会を設けたい。

普段着姿の高橋優子氏
普段着姿の高橋優子氏を収めた貴重な1枚 出所/「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

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高橋優子氏の最後の勝利となった1974(昭和49)年4月28日・水沢競馬第1レースの成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)

| 女性騎手黎明期 | 00:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第30回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(4)

 高橋優子の存在そして活躍は、それまで社会的には男性社会の象徴の1つと見られていた競馬界に風穴を開けた。また競馬界の内部から見ても、女性騎手が誕生したというだけではなく、女性でも優秀な技能を持つ騎手が登場する事を証明したことは衝撃以外の何者でもなかったであろう。それゆえ優子氏は新聞の社会面やテレビへのゲスト出演などを通じ、その生い立ちや活躍ぶりが紹介されるようになった。

 その象徴的な出来事として、1971(昭和46)年に大晦日恒例のNHK紅白歌合戦に審査員として出演したことが挙げられる(注)。紅白の審査員といえば“その年の顔”や“時代の旬”の人が数多く選ばれることから、いかに優子氏が世間から注目されていたかが伺える。と同時に、地方競馬関係者の紅白出演は他に例がなく、その意味では地方競馬史における快挙と言って過言ではないだろう。

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高橋優子氏を紹介する河北新報の記事(1971(昭和46)年2月5日付「河北新報」(「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)より転載))


 また、厩舎での優子氏は馬運車の運転手という役割も担っていた。この当時の盛岡⇔水沢間の輸送は、各厩舎が自前で持つ馬運車で輸送していたが、高橋武厩舎には大型免許を持つ者がいなかった。そこで優子氏は大型免許を取り、盛岡開催に出走する馬を積んだ馬運車のハンドルを握ったのである。盛岡開催の時は夜中に調教に乗った後に馬運車に馬を積み、運転をして到着すればすぐレースに騎乗する。そしてレースが終われば休む間もなく再びハンドルを握り、来た道を戻って来る厳しさだった。

 そういった日々を積み重ねる中で、優子氏の手綱捌きはより一層磨きがかかり、3年目以降もコンスタントに勝ち星を積み重ねた。その成長ぶりを見守っていた父・武氏は「いずれは調教師となって、女性でも馬を育てる仕事ができることを示してほしい」という夢を抱くようになっていた。

(注)この時の優子氏は競馬場での勝負服姿とは違う着物姿を披露している。なお、この時の映像はNHKの映像ライブラリー「NHKアーカイブス」(埼玉県川口市)ほか、全国のNHK地方局等で視聴できる。

騎乗合図を待つ高橋優子
騎乗合図を待つ高橋優子氏(右端) 出所/「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

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パドックでの高橋優子氏 出所/「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

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