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第29回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(3)

 初年度に19勝を挙げ、順調に階段を上り始めた高橋優子は、デビュー2年目となった1970(昭和45)年に大きな飛躍を遂げる。シーズン開幕から順調に勝ち星を積み重ね、その実力を関係者やファンから認められるようになっていった。

 そのような中、彼女はニュースターエイトとのコンビで大きな注目を集める。この馬は父・高橋武厩舎の所属馬で主戦騎手として手綱を取っていたが、この馬とのコンビで7月の水沢競馬で1600m1分42秒5のコースレコード(注)を叩き出すと、その翌月、前年に新設された日高賞に駒を進めた。

 単勝1番人気の支持を受けたこのレースでライバルとなったのが、時のリーディングジョッキーであった小西重征氏が手綱を取るマルマンチカラで、レースも最後はこの2頭のマッチレースとなった。しかし最後まで勝利を信じて追い続けた結果、最後に競り勝ち、優子氏は初のビッグタイトルを掴み取ったのである。

 こうして自信をつけていった優子氏は、当時の岩手競馬で最高賞金レースだった農林大臣賞典で、南関東時代にニューイヤーCとNTV盃(現在の日本テレビ盃)を制した古豪・ツルハゴロモとのコンビで参戦するチャンスが巡って来た。ツルハゴロモは岩手移籍後もA級(オープン)の常連として活躍していたが、往時の活躍の関係で絶えずトップハンデを背負っていたため“勝利の見込みが薄い”と有力騎手から敬遠されることが多かった。今回も同様に直前まで決まらなかった中で、テン乗りになる優子氏に白羽の矢を立てたのである。

 レースは出入りの激しい乱戦となった。後方からのレースとなったツルハゴロモは、3コーナーから一気に仕掛けて直線で一旦先頭に立ったものの、すぐに1番人気だったスパートターフ&小西重征のコンビに捉えられ、万事休したかに思われた。だが、彼女はあきらめていなかった。左ききだった優子氏の左ステッキで叱咤激励されたツルハゴロモは、再び勢いを取り戻すとゴール直前で差し返し、栄光のゴールに飛び込んだのである。

 こうしてデビュー2年目を終えた優子氏はこの年、57勝をマーク。すると高橋優子の名前は岩手競馬の枠を超えて広まっていくようになる。

(注) 当時の水沢1600mはダッシュのつきにくいコーナースタートの時代で、現在使用されている1600mのシュートが作られたのは1982(昭和57)年のことである。

農林大臣賞典の成績表
高橋優子氏が優勝した農林大臣賞典(1970年11月15日水沢競馬第9レース)の成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)

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第28回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(2)

 優子氏の決意を聞いた両親は驚いた。これがもしクニ氏が騎手を目指す前ならば「女の仕事ではない」と反対できたかも知れないが、2人とも現役の騎手である。自らが職とする仕事に飛び込んで来ようとしている娘の固い意思の前に、2人とも反対はせず「途中で投げ出すことだけはするな」と声をかけたという。

 ただし優子氏が目指したのは両親が活躍する繋駕ではなく(注1)、平地の騎手であった。そのため平地を専門的に教えられる所で教わった方がいいと考えたが、1964(昭和39)年に栃木県に開所した騎手教養所(現・地方競馬教養センター)はまだ女性を受け入れる体制になかった。そこで教養所の教官から手紙で技術的な指導を受けることとし、併せて水沢の別の厩舎に下乗りとして預けられることになった。

 ところが優子氏は間もなく、落馬事故によって骨盤を骨折する大ケガを負った。この時、武氏は心配していた一方で「馬から落ちてケガでもすれば諦めると思っていたから、これでやめてくれると思っていた」と振り返っている。しかし優子氏は「自転車で転んだってケガをする。だから馬から落ちてケガをするのは当たり前だ」と言って意に介さなかった。その姿に武氏は感心するとともに、なんとしても騎手になるという強い意志を感じ取ったと語っている。

 その後ケガが癒えた優子氏は「手元に置いていては一人前の騎手になれない」と考えた武氏の意向もあり、長く親交のある新潟の河内義昭調教師(注2)の下で修行することになった。親元を離れた優子氏は「(騎手試験に)合格するまで岩手に帰らない」と心に決め、腕を磨いた。そして1968(昭和43)年の春に受けた試験では不合格となってしまうが、この年暮れに受けた2度目の試験で見事に合格。晴れて日本競馬史上初となる平地の女性騎手が誕生した。

 1969(昭和44)年4月20日に行なわれた水沢競馬の第6レース。ここで父・武氏が管理するキタノヒメとのコンビで初めて岩手の競馬ファンの前に姿を見せた。この初戦はシンガリ(5頭立て)に敗れ、その後もなかなか勝利まで届かなかったが、6月8日の水沢競馬でやはり高橋武厩舎のスイセンカクとのコンビで待望の初勝利を挙げる。すると男性騎手顔負けの力強い手綱捌きで勝ち星を積み重ね、高橋武厩舎の(平地の)主戦騎手として活躍を始めていった。

(注1)高橋武氏は繋駕中心の騎手ではあったが、平地にも騎乗していた。ちなみに高橋優子氏のデビュー2戦目で親子同時騎乗も果たし、その後も幾度か親子共演があった。

(注2)高橋武氏が手がけた“ホマレ”(連載19回参照)が新潟にトレードされたときの所属先。なお、河内義昭氏は河内洋・現JRA調教師の叔父にあたる。

高橋優子のレース中の写真
高橋優子氏の騎乗フォーム(出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」岩手県競馬組合)


初勝利の成績表
高橋優子氏が初勝利を挙げた際の成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)


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第27回 岩手競馬に咲いた大輪の花・・・高橋優子の短すぎる生涯(1)

 「学校はやめた。騎手になる。先生とも相談して決めたから何としても馬をやる」

 この時代の岩手競馬を語る上で避けては通れない人物がいる。1969(昭和44)年にデビューした女性騎手・高橋優子がその人であり、この言葉は高校に入学して半年ほど経った頃に担任の先生と共に帰ってきた彼女が両親に対して語った、不退転の決意であった。

 実は高橋優子(以降、優子氏)の母は1966(昭和41)年に日本初の女性騎手としてデビューした高橋クニ氏であり、父は当時騎手兼調教師であった武氏である。この二女として1950(昭和25)年9月15日に生まれた優子氏は、馬が身近にいる生活の中で幼い頃から父の厩舎で馬と一緒に遊ぶことが多く、時には1人で厩舎から馬を出してきて、その馬に乗ることもあったという。

 しかし中学生になる頃から馬に触れる機会がほとんどなくなった。同世代の仲間たちと一緒にいる時間が増えたためである。中学では部活動に夢中だったことから、武氏は「もう馬には興味がなくなったのだろう」と思っていた。もっとも「女だから騎手になってほしいと思ったことはなかった」のだが・・・。

 ところが優子氏は中学の卒業を前に「馬関係の仕事に就きたい」と言い出すようになった。これを聞いた武氏は、中学を通じて宮内省などに相談してみたところ「女性は採用しない」と返事が返って来た。そのため優子氏は進路を変更し、高校に進学したが、ここで大きな“事件”が起こる。進学と時を同じくして母・クニ氏が騎手としてデビューしたのである。

 話をクニ氏が騎手を目指した時に戻す。クニ氏が騎手を目指すことに対して多くの批判や反対の声が上がることを予測した武氏は、勉強を始めたことを夫婦の秘密として、周囲だけではなく家族にも内緒にされた。優子氏はそのことに薄々気がついていたそうだが、それが現実になるとは思っていなかった。だがそれを実現させ、騎手となった母の姿を見るうちに、自分が夢を諦めたまま高校生活を送ることに次第に耐えられなくなっていった。

 そして優子氏は行動に移す。高校の担任にその思いを伝えた上で、両親を説得してもらえるように頼んだのである。

高橋優子氏
高橋優子氏(出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」岩手県競馬組合)



| 女性騎手黎明期 | 22:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第26回 岩手競馬がテレビに進出・・・競馬中継元年でもあった1972年

 村上昌幸の大記録に沸いた1972(昭和47)年は、岩手競馬の発展にとって大きな1ページが記された年でもあった。それは初めて岩手競馬の実況中継が行なわれた年だからである。

 競馬中継の文字が新聞のラ・テ欄に初めて踊った(注1)のは1972年6月3日で、第1回盛岡競馬初日をIBC岩手放送(以降、IBC)テレビが中継したのが最初である。このきっかけとなったのは、上山競馬の競馬番組の評判が良いことを伝え聞いた組合や関係者から岩手でもやってみようという機運が高まり、スタートしたものであった。

 この時の中継では、解説者として水沢で代々続く馬一族である佐野家の当時当主であった(3代目)佐野玉吉が務めた。佐野氏は1970(昭和45)年の岩手国体の際にご来県された天皇皇后両陛下が、馬術競技をご覧になられるために水沢競馬場にご来場された際に“母衣引馬術”を供覧するなど、馬文化の継承者として広く県民にも知られていた。


佐野玉吉氏
 岩手最初の競馬中継で解説を務めた3代目佐野玉吉氏。この写真は1976(昭和51)年春の叙勲で勲五等瑞宝章を受章した時のもの/出所:「岩手の馬育成-私たちの歩いた道-」(社)競走馬育成協会




馬術供覧の写真
 天皇皇后両陛下が1970(昭和45)年開催の岩手国体で水沢競馬場にご来場された際に“母衣引馬術”を供覧する様子/出所:「岩手の馬育成-私たちの歩いた道-」:(社)競走馬育成協会


 当時の中継、というより実況にはかなりの苦労があり、1978(昭和53)年にIBCに入社した加藤久智アナウンサーによると「私が実況を始めた頃はゴールよりかなり手前にあった馬主席の前に即席の実況席を設けて、そこで喋っていました。つまり高いところではなくファンに近い目線で見ていた訳です。そのため、4コーナーに差し掛かったところで一度完全に双眼鏡で追えなくなってしまうこと。そして最後の直線が下り坂でコースがスタンドよりも下になるために、大外から伸びてくる馬が見えなかったことが何より難しかったんです」と振り返っている。

 その後競馬中継はテレビ岩手も参入し、平成になって開局した岩手めんこいテレビと岩手朝日テレビも中継に取り組んだ。特にIBCとテレビ岩手は競うように中継本数を拡大し、その中で神田勇、加藤久智、井上学(以上IBC)、鈴木直志、加藤浩(以上テレビ岩手)といった名物競馬実況アナウンサーを数多く輩出した。さらにIBCは全国でも数少ない女性の実況アナウンサー(注3)として村松文代、瀬谷佳子を起用したことでも注目された。

 一方、ラジオはレギュラー化したIBCに加え、FM岩手にも中継の経験がある。特に初めて実施した1989(平成元)年9月15日(準メインとしてFM岩手杯オータムカップを実施)の中継は、FM局による日本初の競馬中継といわれている。

 そして現在、テレビ中継こそ少なくなったものの、IBCラジオの『ドラマチック競馬中継』やFM岩手の岩手競馬情報番組『勝ちそー』のように、既に長寿番組の域を迎えている現在も続く競馬番組が数多く制作されていることが岩手競馬の発展を支えている。

(注1)組合では最初の実況中継は1971(昭和46)年の水沢競馬としているが、当時の新聞を確認したところ、生番組内で競馬場からのレポートを伝えるケースがあるものの“競馬中継”の文字は確認できなかった。

(注2)初代佐野玉吉については連載第5回参照

(注3)日本の女性競馬実況アナウンサー第1号はラジオ関東(現・ラジオ日本)の井口保子氏。その後、場内実況は現役の小枝佳代氏(ホッカイドウ競馬)を含め過去に数名いるが、いわゆる“局アナ”に限れば井口氏とIBCの2人しかいない。なお井口氏はFM岩手の最初の競馬中継でゲスト出演しており、この時実況も行なっている。

盛岡競馬場の写真
 テレビカメラがレースの模様を追う旧盛岡競馬場(1972(昭和47)年撮影)/出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

盛岡競馬場の実況席の写真
 旧盛岡競馬場の実況席の様子(1975(昭和50)年・桐花賞中継時のもの)/出所:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合))

| 昭和40年代 | 10:00 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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第25回 伝説の大騎手・村上昌幸の初リーディングまでの軌跡(2)

 1年目のシーズン終了後、村上昌幸氏は再び浦和に渡った。今度は実戦騎乗もあった武者修行。当時の南関東は佐々木竹見、高橋三郎といった日本の競馬史に語り継がれる名騎手をはじめとした人気ジョッキーたちがシノギを削っていた。そんな彼らと実戦の中で競い合った経験を岩手に持ち帰り、2年目からのシーズンに活かすことができた。

 また岩手ではデビュー当時からリーディングジョッキーに君臨していた小西重征氏(以降、小西氏)に積極的にアドバイスを求めていた。2人は盛岡と水沢で所属が分かれていたが、盛岡開催になると昌幸氏は毎日小西氏の部屋に足を運び、一緒にパトロールビデオを見ながら「俺がどう乗っているのかを見ながら、俺が何を考えて乗っていたのかばかり聞いて来ました」(小西氏)という。

 こうして96勝を挙げた2年目はリーディング2位に順位を上げ、いよいよリーディング奪取に期待がかかった3年目。開幕から快調に勝ち星を伸ばし、順風満帆のシーズンを過ごしていた。

 ところが好事魔多し。あるレースで失格となり、騎乗停止10日という厳しいペナルティを科された。この時のレースを昌幸氏は今も鮮明に覚えているという。

 「普段でも行儀の悪いところがあった馬でさ。逃げ馬なんだけど、その時もちょっとヨレて後ろに迷惑をかけた形になってね。でも乗ってる感覚だとそんなに迷惑はかけていない気がしたけど、結局失格になっちゃって・・・。その間はレースに乗れないのが辛かった」

 しかし18歳の若者は、復帰後も若さあふれる騎乗でほぼ毎日のように固め打ちを繰り返し、次第に独走態勢を築いていった。そして1970年に小西氏が記録したそれまでの年間162勝も突破した昌幸氏は、シーズン最終日の最終レースも勝利で締め、初のリーディングを当時不滅といわれた年間最多勝記録187勝で花を添えたのである。

 昌幸氏は「今となってみれば、騎乗停止がなければ200勝出来たかもって思うけれど」と残念がっていたが、この年の開催日数は現在よりも少ない90日で、うち10日を騎乗停止で乗れなかったことを考えれば、現在のような騎乗制限がなかったことを差し引いても驚異的な記録であることが伺える。

 またこの年の775鞍という騎乗数にも注目したい。実はデビュー当初はサウナで体重を落とせないことがあったほど体重調整に苦しんでいた。この騎乗数にはそれを克服し、持って生まれた素質を発揮できる騎手に成長したことを証明していた。そしてこの後、昌幸氏は毎年100勝前後の勝利を積み重ねながらリーディングの座を守り続けたのである。

デビュー当時の村上昌幸氏
デビュー当時の村上昌幸氏(提供:村上昌幸氏)

| 昭和40年代 | 10:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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