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第24回 伝説の大騎手・村上昌幸の初リーディングまでの軌跡(1)

 平地競走一色となった岩手の競馬界は、1972(昭和47)年に1人のスーパージョッキーが競馬場の喝采を集め、その勢力図が大きく変貌した。それまで4年連続でリーディングジョッキーに輝いた小西重征(現調教師)に代わり、当時まだ18歳の村上昌幸(現調教師)がその座を奪ったのである。

 繋駕のトップジョッキーとして鳴らした村上初男氏の息子として1954(昭和29)年1月6日に生を受けた村上昌幸氏は、幼少の頃から父に連れられて競馬場や礼堂にあった調教馬場に行き、馬に跨っていたという。競馬場が最高の遊び場だった昌幸少年は、父の背中を追いかけるうちに、誰に相談するでもなく中学生になる頃には騎手を目指すと心に誓っていた。

 だが「親父も繋駕専門の騎手で体重もあったし、姉も比較的しっかりした体をしていたから、小さい体の系統ではないのね」(村上昌幸氏。以降、昌幸氏)と語るように、(平地)騎手を目指す上では恵まれた家系ではなかった。そのため成長期の体に反するように食事を制限し、減量にも取り組んだ。一方で中学では剣道部のキャプテンを務めており「練習は結構ハードだったし、あの胴着を身につけるからすごい汗をかくのさ」(昌幸氏)と振り返る部活動に体が耐えられなくなり、栄養失調で病院に担ぎ込まれたこともあったという。

 そのため1969(昭和44)年に中学を卒業して騎手への道を歩む時、体重制限が厳しい地方競馬教養センターへの入所は不可能だった。そこで父の厩舎で働きながら“一発試験”(注1)を受ける道を選び、受験資格である満16歳以上をクリアして最初に行なわれる翌年3月の高知(注2)に照準を合わせた。しかし岩手は11月で開催を終了したため、その後は馬に乗れない。そこで試験までの間、父をはじめ多くの人の力添えで、浦和で厩舎の手伝いをしながら攻め馬に乗せてもらえることになった。

 ところがハードな仕事が続く毎日に食欲を抑えられなくなり、体重が60キロを超えてしまった。そこから過酷な減量によって何とか試験を受けられる49キロまで体重を落としたものの、「(高知の)試験に落ちれば、もうチャンスはないと思っていた」(昌幸氏)と覚悟するほど、昌幸少年の体は限界に近づいていた。それでも、騎手になるという強い意思がその体を支えていた。昌幸氏はこんなことを語っている。

 「騎手を意識し始めた頃に『中央競馬はすごいんだってよ。賞金もいいし』みたいな事は聞かされていたさ。でも“岩手で騎手になる”のが自分の運命みたいに感じていたから、岩手に中央競馬の情報が入りにくいこともあったけど、興味はなかった。だから試験を受けている時もどこかで“絶対に合格する”って思いはあったよね」

 その強い意思で臨んだ高知での騎手試験に合格し、1970(昭和45)年4月に騎手・村上昌幸としてファンの前にその姿をあらわした。すると新人離れした騎乗ぶりで競馬場を盛り上げると、いきなりリーディング3位となる48勝を挙げ、岩手の競馬ファンに強烈なインパクトを与えたのである。

(注1)年数回、指定された競馬場で実施される、厩舎で働きながら騎手を目指す者に対して実施する試験の俗称。現在の騎手は地方競馬教養センター修了者(2000(平成12)年廃止の短期講習生含む)が大半だが、当時は一発試験組が多数派だった。

(注2)1985(昭和60)年4月に現競馬場に移転するまで別名「桟橋競馬場」と呼ばれていた旧・高知競馬場。


中学生時代の村上昌幸氏
中学生時代の村上昌幸氏。この頃には既に攻め馬にも乗っていた(提供:村上昌幸氏)

| 昭和40年代 | 10:00 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

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第23回 繋駕騎手の日常と、名手が選ぶ繋駕の名馬

・減量に苦しむ専門騎手、軽さに苦しむ平地兼任騎手

 現代行われている競馬は、能力の均一化を負担重量に差をつけることで行なっている。しかし繋駕は“距離ハンデ”といい、騎手の負担重量を原則65キロ(晩年は68キロ)の定量とする一方、強い馬を正規のスタートラインより後ろからスタートさせて、能力の均一化を図っていた。

 65キロといえば平地より10キロ前後重いものの、繋駕専門の騎手の多くは減量に苦労したという。例えば最後の繋駕で勝利した志村文雄氏は繋駕専門だったが、普段は実に70キロ。当時はサウナはなく「体を動かして食事をとらないことで体重を落としていた」(志村文雄氏)そうだが、当時は3キロまでの超過が認められており、減量が必要な人は68キロで乗ることが多かった。勝負服や装備などが3キロ程度あるため、志村文雄氏なら最低5キロの減量が必要だった訳だが、中には10キロ以上の減量を強いられていた騎手もいたとのこと。ある現役調教師(元騎手)は「現在は騎手に向く体型の人が騎手になるが、昔は競馬が好きで騎手になった人ばかり」と話されたことがあったが、この過酷さは競馬が好きだからこそ耐えられるものと言えるだろう。

 一方で平地・騎乗でもトップジョッキーとして活躍した阿部時男氏の場合、現役時代は52キロで、体重の軽い騎手は繋駕の下の部分に“カバン”と称していたオモリを入れた袋を取りつけて調整していた。しかしレースでは「前の馬を交わそうとする時やコーナーの辺りで繋駕どうしがぶつかると、俺とか体重の軽い騎手はそこでよくはじき飛ばされたんだ」(阿部時男氏)と語るように、専門騎手との体格差に苦しむ場面が多かったという。

・名手が選ぶ思い出の1頭

 繋駕の話題を取り上げる最後として、村上初男氏と阿部時男氏から、組合設立後に自らが騎乗して活躍した、思い出の馬を紹介していただく。

 村上初男氏から紹介していただいたのは岩手生え抜きの“ビーツルツネ”(1967(昭和42)年6月・地方競馬全国協会会長賞典優勝、同7月・全国公営競馬主催者協議会会長賞典優勝)で、「俺が北海道に行って買ってきた馬で、それを俺が調教してレースに使って馬なんだ。この馬には随分と勝たせてもらって中央に売れていってね。中央も繋駕は下火だったけれど、そうやって売れていく馬はまだいたんだよね」(村上初男氏)と語っている。

 一方、阿部時男氏から紹介していただいたのは“エンゼルホープ”(1965(昭和40)年5月・岩手県知事賞優勝、同11月・謝恩競走優勝など)という中央からやってきた馬である。この馬は「最高で250mのハンデをつけられたからね。繋駕では2000mのレースが多かったけれど、旧盛岡競馬場だと250mも下がればちょうど3コーナーの下り坂なんだよ。下りだと勢いがつくからキャンターになりやすかった。だから下りのスタートは怖くて神経を使ったんだよ」(阿部時男氏)と語っている。

阿部時男氏
騎手時代はオールラウンダーとして活躍した阿部時男元調教師(2004年撮影)。


エンゼルホープの成績表
エンゼルホープが優勝した岩手県知事賞(1965(昭和40年)5月24日・水沢競馬第9レース)の成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)


村上初男氏の写真
村上初男元調教師が騎手時代、繋駕速歩に騎乗していた昭和20年代の貴重な写真(提供:村上初男氏)


ビーツルツネが優勝した際の成績表
ビーツルツネが優勝した全国公営競馬主催者協議会会長賞典(1967(昭和42年)7月23日・盛岡競馬第9レース)の成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)



・参考・繋駕の失格ルール

 繋駕(騎乗含む)には“歩法”に関するルールが定められており、次の違反をすれば失格となり、出走停止などのペナルティが科される。

1.長距離異歩法-長い距離(約200m以上)キャンターになった場合
2.しばしば異歩法-繰り返し(約5回以上)キャンターになった場合
3.異歩法入線-キャンターでゴールに入線した場合

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第22回 1971(昭和46)年6月20日「繋駕ラストラン」

 「いずれこの時が来るとは思っていたけど、終わってみればやっぱり寂しかったよ」と振り返ったのは阿部時男(元調教師)。「(それまでの)岩手の競馬は水沢と速歩競走が支えていたと思うんだ。そう考えれば寂しいよね」と語ったのは村上初男(元調教師)。組合設立以前から繋駕のトップジョッキーとして互いにライバルとして認め合い切磋琢磨した2人が、繋駕の終焉に対して送った言葉である。

 繋駕の編成が少なくなっていったこの当時、阿部時男氏も村上初男氏も既に調教師として厩舎を開業していた。特に1965(昭和40)年に厩舎を開業した阿部時男氏は、自らの厩舎には繋駕は置かなかったという。しかしレースが少なくなるにつれ、繋駕に乗れる騎手も少なくなったため、阿部時男氏や村上初男氏をはじめ既に調教師となっていた人も(当時はまだ騎手兼調教師が認められていたとはいえ)繋駕だけは騎手として駆り出されていた。

 そして1971(昭和46)年に入ると、岩手競馬は平地競走一色になった。繋駕が編成されない日が多くなり、編成される時も朝の第1レースのみ。既に風前の灯火となっていた中で迎えたのが6月20日の盛岡競馬第3レースだった。普段の2倍以上の賞金となる1着賞金10万円を賭け、最後となる繋駕レースが行なわれた。

 9頭立てで行われたこのレース、9人の騎手は万感の思いと、最後の勝利を目指して激しくムチを振るった。レースは志村文雄(元調教師)が手綱を取るスペースマンが懸命に逃げるところ、最後に高橋クニ氏が操るハイスポートが襲いかかってきた。彼女もまた女性騎手のパイオニアとして、そして最後となる舞台に勝利を信じて追いかけてきたのだ。しかしその追撃をスペースマンは最後まで凌ぎ切り、最後のゴールに飛び込んだのである。

 こうして岩手から、そして日本の競馬界から繋駕は姿を消した。しかし当時の記憶を残すかのように、今も組合の倉庫には当時使用されていた繋駕が残されているという。

志村文雄氏
最後の繋駕速歩競走で優勝した志村文雄元調教師(2004年撮影)。


最後の繋駕速歩競走の出走表・成績表
最後の繋駕速歩競走となった1971(昭和46)年6月20日・盛岡競馬第3レースの出走表及び成績表(提供:NAR地方競馬全国協会)


リーディング一覧
組合設立の1964(昭和39)年から繋駕速歩最後の年である1971(昭和46)年までのリーディングジョッキー一覧


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第21回 繋駕から平地へ・・・転換点となった1969(昭和44)年

 自治体競馬の時代から岩手競馬を支え、盛り上げてきた繋駕だったが、高橋クニのデビューと相前後して、その存在感は次第に失われていく。これは元々、岩手の繋駕が他の主催者に向けた供給地として機能していたものが、中央が1968(昭和43)年12月の中京競馬を最後に繋駕を廃止するなど、供給先となるべく他の主催者がなくなり、その機能を失ったためである。

 一方の平地は、繋駕のように毎日走らせることはできないため、馬資源確保が開催維持の重要な課題となっていた。その改善のため1969(昭和44)年のシーズン開幕にあわせ、新たに水沢競馬場に80馬房分の厩舎が造られたことで、この年から平地競走中心の番組編成が可能となった。

 さらに繋駕では行なわれなかった取り組みも始まった。レース名に特定の名称をつけて行われるようになったのである。この年は水沢で行なわれた駒形賞(5月)と日高賞(6月)、盛岡で行なわれた岩鷲賞(7月)と不来方賞(8月)の4競走が創設。それぞれ1着賞金25万円と高額賞金(注)が用意され、岩手競馬の根幹競走として位置づけられた。

 騎手の世界にも平地を目指す騎手が生まれていた。その代表格が小西重征(旧姓・福田、現調教師)と櫻田浩三(現調教師)の両名で、小西重征氏は1963(昭和38)年のデビュー以来、それまでほとんど例がなかった平地専門の騎手として活躍。また櫻田浩三氏は1965(昭和40)年に繋駕専門でデビューしながら、たゆまぬ努力と過酷な減量を克服して平地の免許も取得した転身組であった。

 そして1969年はこの2人が大ブレイクした年でもあった。櫻田浩三氏はそれまで手の届かなかった高額賞金レースを数多く制し、大舞台に強い騎手として確固たる地位を築いた年となった。また小西重征氏は前年に初の平地リーディングを獲得した勢いそのままに岩手競馬史上初の年間100勝を達成、シーズン終了後には小西善一郎氏の娘・ヨシ子氏とゴールインしたことと併せ、騎手生活の絶頂期を迎えたのである。

 その一方で、繋駕部門の騎手表彰は1969年を最後に廃止された。この時、生産界に目を転ずれば、既に繋駕向けのトロッター種の生産を行う牧場はなく、平地の拡大とともに繋駕の終焉は間近に迫っていたのである。

(注)最高賞金レース別にあり、1969年は年度末の組合設立五周年記念競馬で県知事賞を賭けて行われたレースの35万円が最高で、その後数年は「農林大臣賞典」競走が最高賞金レースとして行なわれた。

小西重征騎手の口取り写真

繋駕全盛期に平地専門としてデビューした小西重征現調教師の騎手時代の貴重な口取り写真。1978(昭和53)年11月盛岡競馬でのもの。提供:高橋シヅ氏

騎手デビュー前の櫻田浩三氏

櫻田浩三氏は騎手デビュー前、東京オリンピック出場馬の世話をするために約4年間を東京で過ごした。この写真は馬術界で“神様”と呼ばれた小松崎新吉郎氏(左端)ら仕事仲間と撮影した貴重なもの(右から2番目に立っているのが櫻田浩三氏)で、この当時70キロ近く体重があったという。(提供:櫻田浩三氏)

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第20回 女性騎手第1号・高橋クニ誕生(2)

 クニ氏の言葉に武氏は、反対する気持ちはなかったというが、女性騎手がいるという話はもちろん、騎手になれるという話も聞いたことがなかった。そこで当時、NARから岩手に派遣されていた職員に尋ねたところ「ちゃんとした技術があって、試験に合格すれば女性でも免許を出す」という答えだった。それを伝え聞いたクニ氏は本気になった。武氏も「努力してダメだったら仕方ない」と、持っていた競馬の本を学科試験の参考書代わりに渡したり、技術指導に乗り出すなど、協力を惜しまなかった。

 しかし武氏の話によると、繋駕の騎手といえども騎手試験は乗馬(今でいう平地競走)で行われることから、その技能の会得には苦心したという。中でも“飛び乗り”は体力がある若い女性でもなかなか難しく、普段から馬に接していたクニ氏にとっても大きな壁であったが、情熱とたゆまぬ努力でそれを克服した。

 そしてクニ氏は1966年に騎手試験を合格し、その年の春の水沢競馬で繋駕専門の騎手としてデビューした。この時実に38歳。夫の武氏も現役として活躍していた夫婦ジョッキーであったことも含め、国内女性騎手第1号は異色ずくめであった。そしてデビュー間もない3戦目には、自らの手で復活への道しるべをつけ、騎手への夢を与えてくれたホマレの手綱を取り、初勝利を挙げたのである。

 それをきっかけにクニ氏は“日本唯一の女性ジョッキー”としてメディアでも紹介されるようになり、岩手競馬の注目度を高める役割を担った。もちろん、クニ氏が絶えず努力を積み重ね、繋駕で活躍する多くのトップジョッキーたちと白熱した戦いを演じたことで、ファンからも信頼を得ていた騎手であったことを忘れてはならない。

高橋クニの騎乗姿

レース中の高橋クニ氏の雄姿 出典:「岩手県競馬組合30周年記念誌」(岩手県競馬組合)

新聞記事

高橋クニ氏がテレビで紹介されることを報じた胆江日日新聞の記事(1966年7月12日付「胆江日日新聞」より)

追記・高橋クニを女性騎手第1号と定義する理由

 高橋クニはJRA(前身含む)またはNARが発行した騎手免許により騎乗した最初の女性であることから第1号と定義している。ただし免許を得たという意味では、1936(昭和11)年、京都競馬倶楽部の騎手試験に合格した岩手出身の斉藤澄子がいる。しかしデビュー直前に帝国競馬協会(当時)は、風紀を乱すとして騎乗を取りやめるよう通達を出し、また翌1937(昭和12)年設立の日本競馬会は会則で女性が騎手となることを禁じたため、実際にレースで騎乗することはできなかった。

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